回答にまた突っ込むかもしれませんが、できたらもう一度回答おねがいします。
①思想の否定
優性遺伝子が必ずしも人間にとって有益なものとはいえない。人間の全ての優性遺伝子が人間にとって有益なものであれば、優性思想は成り立つものの、劣性遺伝子のほうが人間にとって優位な場合もあるわけであり、優性思想により全ての問題が解決するわけではない。
②条件に関わる否定
地球には赤道近辺の国があれば、極近辺の国もある。よって高温地域にとって優位な遺伝子であっても、低温地域にとっては優位な遺伝子とは言えない可能性がる。よって現行のように、世界各国をまたに掛けたビジネスがもてはやされる現状においては、特定の条件下で優位性を持っていても、トータルバランス的に優位性を有しているとは言いがたい。
ダミー
強者を絶対化してしまう思想なのでアウトでしょう。
強者も弱者を含む循環的調和の一部にすぎないと一定の領域を適正に区切れないと、全体が死滅の危機に陥る確率が高くなります。
確かに全体が死滅の危機に陥る確率が高くなるのは裂けるべきですが、弱者を淘汰することでそれが起こるとは僕には思えません。
逆に、これまで生物がたどって来た進化の過程は弱者の淘汰なんだと学校で習いました。単純に種の保存という観点からは否定できないんじゃないかと思います。
循環的調和といえばそれもそうですが・・・強者のみの世界に移行していく過程においてはピンからキリまでいるわけだから多様性は保たれているんじゃないかと思うし、当面の社会の方向性としてはいいんじゃないかとおもいます。単純に種の保存という観点から、の話ですが・・・
http://www.eonet.ne.jp/~00naoya/honndana.html
ほんだな:なおやのおうち
大江さんの「障害児がいるということは、いろんなことを人間について教えてくれる大切な契機なのだ、そこに重要な意味がある。・・・・たとえば、人間が魂を洗うということをいいます。自分の精神を洗い清める、洗いなおすということの、その手がかりを障害児は、なす」に同感です。
違う人がいて、自然なんですね。
本当に障害者の方たちが運命と戦っているのを見ると感動して力が出てきます。
ただ、そういう感動というのは、
優生思想が人々の頭のなかにあってコンセンサスを得ている社会においては存在しないのでしょうか・・・
例えば、強者たちが淘汰されていった人々のことを考えるとき、同じような力は湧いてこないのでしょうか?
http://toriyamac.hp.infoseek.co.jp/
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良い物を残し、悪いものは排除すると言う考えは、
人権的にも関わってくる可能性のある問題になりうるし、
まだ科学の進歩が万全と言えない内から、選択していった場合、
後々生態学的または地球上の秩序が破綻する恐れ
があるので、このような思想にはあまり賛成出来ません。
だみー
端的に言えば、優生思想は厳密に運用すると自分自身や自分の身内を抹殺しかねないリスクがあります。
進化の歴史は弱者の淘汰と言う側面ももちろんありますが、たとえば「事故で骨折した」という場合を考えるとどうでしょう。
自然界では生存競争に著しく不利になりますが、だからといって人間社会で「骨折するような間抜けは淘汰されるべきなので死刑」という思想が認められるようではいつ自分も淘汰される側に回るかわかったもんではありません。
障害児についてもそうです。自分が現在障害をもっていないからといって、自分の子供が障害を持って生まれてこないという保証はありません。障害児を抹殺する制度はすなわち、自分の身内を抹殺する制度に繋がる可能性を含んでいます。
前述のようなある程度明白なものですらこういった問題はありますが、さらにその閾値をどこに設けるかと言う問題もあります。仮に骨折は死刑だとして、ヒビならどうでしょうか?脱臼なら死刑は免れるのか?筋肉痛は?
そうした線引きに実質的な合理性は無いでしょう。合理性のない線引きは容易にエスカレートします。「劣等民族の抹殺」なんてのはその端的な例です。
なるほど。自分自身が死ぬことはフツーは単純にイヤですよね。
ここで発想の転換なんですけど、
もし優生思想が自分が死ぬに値する考え方だったらどうしますか?
僕がこの質問をした背景を恥ずかしがらずに言いますと、今、僕は自分に自信が持てなくなっています。
同時に自分より才能のある人間が世の中にたくさんいればきっといい世の中になるかもしれないな、多くの人が幸せになって欲しいな、という気持ちが漠然とですが、あります。
一方で自分も生きていたい気持ちもあります。
後者の自分が生きていたい気持ちを肯定するために前者の気持ち、つまり言ってみれば優生思想なるものを否定してもらいたく質問しました。優生思想が僕の生きていたい気持ちを乗り越えるもので、自分が死んでもいいと思えるものであるならば、喜んで死のう。(まあ、ここでの回答で死ぬことを決意することはない絶対無いですが(笑))
こういう自分が死んでもいいという境地に人間は立つべきか否か、そこを見極めたい、と思っています。
この境地に立てば「閾値」の問題は自分の判断で決めてしまえばいいので問題にならないと思います。
http://d.hatena.ne.jp/Randa/20041219
2004-12-19 - 人の背中は見えるが、自分の背中は見えない
優性遺伝子を持つ生物がだけが生き残るとは思いません。時間が経てば劣勢遺伝子と思っていたものが生き残る為に重要なものになっているかもしれません。
恐竜は巨大化したから繁栄したが、地球の温度が下がったり食料が減ったら巨大なのがマイナスとなり全滅した。逆に弱かった小型動物が生き残った。
だから環境などによってその遺伝子が良いか悪いか変わってくる。結局は環境などとの相対的なものだと思うから遺伝子に優越をつけているがそれは絶対的なものではないと思う。
「生存」という観点から言えば、
人間の知能や運動能力といったものはどんな環境においても役に立つものじゃないでしょうか?
http://www.hatena.ne.jp/1111155909
人力検索はてな - 優生思想を否定してみてください。 回答にまた突っ込むかもしれませんが、できたらもう一度回答おねがいします。
ダミー
その個体が優れているかどうかは環境に左右されることです.環境が変わってしまえば,今まで有利だった個体が不利になるということもあり得ます.例えば,寒さに強い個体は,寒冷環境下では優性ですが,温暖化で気温が上がると劣性になってしまいます.逆に寒冷条件下では劣性だった暑さに強い個体が優性になりますね.
環境は常に変動するものですから,多様性を損なうようなことは,その種全体としての環境適応能力を損なう結果になると言えるでしょう.従って,現在の環境下で優性である遺伝子だけを残していくという考え方は,結果として種を多様性のない脆弱なものにしていく行為であると考えられます.
前の方とだいたいおなじですね。
回答して下さったように暑い寒いといった環境に人間を適応させていくことは生存という観点からは誤っていると思います。
ただ、優秀な人、というときにやっぱりいろんな分野があるし多様性は大丈夫なような気がします。
すいません。
ここで確認しておきたいのは、
僕が優生思想推進派なのではなく、あくまで僕の立場は「どっちがいいか分かんない」です。
皆さんの回答に毎回ツッコんでいるのは考えを深めたいからです。
失礼かもしれませんが回答お願いします。
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H15/H15HO097.html
Request Rejected
遺伝子組換え生物等の使用等の規制による生物の多様性の確保に関する法律
第一条
この法律は、国際的に協力して生物の多様性の確保を図るため、遺伝子組換え生物等の使用等の規制に関する措置を講ずることにより生物の多様性に関する条約のバイオセーフティに関するカルタヘナ議定書(以下「議定書」という。)の的確かつ円滑な実施を確保し、もって人類の福祉に貢献するとともに現在及び将来の国民の健康で文化的な生活の確保に寄与することを目的とする。
第四条
遺伝子組換え生物等を作成し又は輸入して第一種使用等をしようとする者その他の遺伝子組換え生物等の第一種使用等をしようとする者は、遺伝子組換え生物等の種類ごとにその第一種使用等に関する規程(以下「第一種使用規程」という。)を定め、これにつき主務大臣の承認を受けなければならない。
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H12/H12HO146.html
Request Rejected
ヒトに関するクローン技術等の規制に関する法律
第一条
この法律は、ヒト又は動物の胚又は生殖細胞を操作する技術のうちクローン技術ほか一定の技術(以下「クローン技術等」という。)が、その用いられ方のいかんによっては特定の人と同一の遺伝子構造を有する人(以下「人クローン個体」という。)若しくは人と動物のいずれであるかが明らかでない個体(以下「交雑個体」という。)を作り出し、又はこれらに類する個体の人為による生成をもたらすおそれがあり、これにより人の尊厳の保持、人の生命及び身体の安全の確保並びに社会秩序の維持(以下「人の尊厳の保持等」という。)に重大な影響を与える可能性があることにかんがみ、クローン技術等のうちクローン技術又は特定融合・集合技術により作成される胚を人又は動物の胎内に移植することを禁止するとともに、クローン技術等による胚の作成、譲受及び輸入を規制し、その他当該胚の適正な取扱いを確保するための措置を講ずることにより、人クローン個体及び交雑個体の生成の防止並びにこれらに類する個体の人為による生成の規制を図り、もって社会及び国民生活と調和のとれた科学技術の発展を期することを目的とする。
遺伝子組換え生物等の使用等の規制による生物の多様性の確保に関する法律では遺伝子の多様性を確保しなければならないことになっており、クローン規制法ではの尊厳の保持、人の生命及び身体の安全の確保並びに社会秩序の維持のため個体の複製が否定されております。
法との整合性という観点から優生思想は一定程度否定されます。
厚生労働省の厚生科学審議会先端医療技術評価部会生殖補助医療技術に関する専門委員会(第17回)議事録には、「第三者の配偶子提供等による生殖補助医療のあり方に関するたたき台」に関する議論で「優生思想に基づく措置を排除する」との文言をいれるかどうかで議論になったことがありました。
法律で決められているからダメだって言うのはちょっと・・・
種の生存、利か不利かという観点からは、
優生思想を否定する最大の根拠は多様性の消失だけなので、
もし、多様性を持った優生群なら、優生思想は否定できませんね。
例えば、記憶力のいい個体がいるとして、
全員が同じ遺伝子に基づいた記憶力の向上の場合、
例えば、その遺伝子に強力に作用するような疾病などが流行った時など困りますが、
それぞれの記憶力のいい個体の原因遺伝子が異なる場合なんかは、
能力としては優生ですが、種としては多様性が保たれているので不利な側面は無いと思います。
もう一つ否定し得るとしたら、進化かな?
例えば、記憶力を司るAという遺伝子があって、
Aが変異を起こしてA’になったら記憶力アップ、などの場合に、
優生思想からすると、A’ばかりの個体になるわけで、
でも、別の変異”が起きた時に、A”はAやA’より遥かに能力が高いかもしれず、
A’”はA”に及ばないという場合もあるので、
次世代の進化の材料としては、たとえ今は愚図な遺伝子でも、たくさんの種類があった方がいいかもしれません。
元の遺伝子が優れてる方が、変異が入った場合にも優れてるとは限りませんから。
子供を残す気がなければ、劣生は必要ないかもしれませんね。
ありがとうございます!
あまり進化などに詳しくないんですが、まあ進化はランダムな現象だと思うので生物学とコンピュータに任せておきます。
すみませんが、これまで種の保存とかいった生物学の領域に基づいた回答がほとんどなので、
これからは倫理的な観点、人の生死観、など内面的な観点からの回答お願いします。
まずは、優生思想の遺伝学的な欠点を。
優生思想による交配が繰り返されるということは、程度の差こそあれ、近親交配と類似した状況が作り出されるという事です。
要は遺伝子が似通った者同士の交配となっていくということですが、この場合にはあるリスクが生じます。
それは、遺伝病の多発という事です。
普通、遺伝病に関わる遺伝子は劣性なので、多くの場合では遺伝子を持っていても発症しないのですが、
保因者同士の交配では発症者がでる確率が格段に高くなります。
遺伝子自体の機能が完全にわかっているわけでもなく、さらに病気と遺伝子の関連も全部が明らかにはされていない今では、
優生思想によって残された個体にそういった遺伝子が紛れ込まないとは言い切る事が出来ません。
また、仮に全てがわかったとしても、そういった遺伝子は膨大にあるので、
全てを排除すると確実に多様性は失われる事と思います。
近親交配による影響は皇室にも例があるといわれてますよね?
それと同じ事がゆっくりだけど起こるという事なのです。
それからもう一つ。
そもそも優生思想とは「人間の集団を遺伝的に改良しようとする思想」なのですが、そもそも「改良」する方法がよくわかっていません。
単純に「良いものを選択して悪いものを排除する」ことが「改良」と受け取られているようですが、実際にはそんなに単純ではありません。
例えば、何か1つの事に飛び抜けて秀でているが他の事は全部からっきしな人と、何をやらせてもそれなりにそつなくこなすがそれ止まりな人とを比べたとき、
どっちが優れている、という事を一概に決める事ができるのでしょうか。
そういった基準が全く考えられてないところが優生思想の非現実的な側面であると思います。
個人的には、優生思想を振りかざしている人は言っている事こそ実に科学的ではあるのですが、
その手段についてはまだ完全に思いこみの域にあるように感じるのです。
かつての例だと、民族で分けていましたが、実際の所完全に思いこみというか妄信というか。
まとめます。よくわかっていないものを無理に振りかざして何かしようとするな、と。
だみー
返答レスです。
私の書いた
>強者を絶対化してしまう思想
という部分が鍵だと思います。
思想として問われている以上、前提として「社会制度を構築する基準」として優生性が採用されてしまう話だと思うのですが、デメリットが多いでしょう、と。
いくつか挙げてみると、
優生を判定する基準自体を判定する仕組みはどうするのか。
生物としての優生と意思の優秀性の相関は証明できるのか。
優生思想社会を会社に例えてみると経営者だけで労働者のいない会社は動くのか。あるいは昇進しようと他者の足を引っ張る会社は結果として強くなれるのか。
社会は幸せを実現できることが前提なのに、劣勢と烙印されコンプレックスを抱かせる状態は幸せなのか。
優生はカテゴリ別に優劣は発生するのだから、個体に完璧を求めて人員を切り捨てるより、切られるはずの人がよりよく効率的に分業させられる社会の方が強くないか。
などなど。
少なくとも思想として「各人たくましくあれ」程度はいえても、制度の基準として採用するにするにしては硬直を招くような思想は無駄が多くて皮肉なことに思想として優生ではないように思えます。
>多様性は保たれているんじゃないかと思うし、
安定して多様性が継続できる環境を保存しようとするなら、なおさら構成員自体で潰しあいかねない優生思想は集団としては誤作動のネタにしかならないでしょう。
よほど慎重に優生を制御できる規律を実現できるのなら別かもしれませんが、それは最早単純な強者優先ではありませんし。
一応書いておくと、個人と制度は作動が異なる次元の話なので別の考察が必要でしょうね。
http://www.josei.com/bwo/nakano3.htm
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現在、日本の女性の中絶の権利を保障する唯一の法的裏付けとして、優生保護法がある。しかしこれは、第二時大戦中の国民優生法をもとに制定されたものであり、「優良な子孫を選別する」というナチスの優生思想による「断種法」に基づいている。そのため、現行優生保護法は、「障害者」を排除する差別的側面を持つ(「胎児条項」)(3)。同法が中絶を認めるのは、母体の保護にその主眼があるのではなく、「不良な子孫の出生を防止する」という優生学的な事由によっているからなのである。
→倫理的側面から優生思想を考えた場合は、この点が最大の論点となるでしょう。即ち、劣勢遺伝子の人間は生命を閉ざされてしまう、ということです。我国憲法の3基本である国民主権に反する考え方なのです。何人も同様に生きる権利を有しているのに、劣性遺伝子の人間が排除されるというのは、倫理上は赦されない行為でしょう。よって優生思想は倫理上は好ましくないといえます。
http://www21.ocn.ne.jp/~kobataka/education/rou-3.html
聴覚障害児の〈分化〉教育と〈統合〉教育の考察
3のコメントへの回答です
>優生思想が人々の頭のなかにあってコンセンサスを得ている社会においては存在しないのでしょうか・・・
「分化」されていれば、難しいと思います。戦前に生きていないのでわかりませんが、現在のようになるのが自然ですね。
いいかどうかは別にして、選択できるようになった訳ですから。
>例えば、強者たちが淘汰されていった人々のことを考えるとき、同じような力は湧いてこないのでしょうか?
淘汰といっても抹殺してしまうわけではありませんから、家族や自らが「隠す」のでしょうね。
ドラマの中でも変化しているのがわかりますが、無言の差別がなくなるまでは、当事者の戦いは永遠かもしれません。
http://www.hatena.ne.jp/1111155909
人力検索はてな - 優生思想を否定してみてください。 回答にまた突っ込むかもしれませんが、できたらもう一度回答おねがいします。
人間が他の動物と違うところは、必ずしも本能(優勢思想)に縛られていないところ。
人間としての価値というのは、まさにそこにあると思います。つまり、優生思想というのは人間の尊厳の否定ではないでしょうか。
人の背中は見えるが、自分の背中は見えない
「生存」という観点から言えば、人間の知能や運動能力といったものはどんな環境においても役に立つものじゃないでしょうか?
かなり多くの場面で役に立ちますが絶対に役に立つとは言えません。(運動能力は他の動物よりあまり優秀とは思いません)知能の発達によって体の環境変化などへの耐久力は落ちています。(エアコンや車の使用で)ある能力が発達すれば、あまり使わなくてすむ他の能力が低下します。その能力が発揮できる環境の時は上手くいき繁栄するが、その能力が発揮できなくなったら他の能力も低下しているから『種の存続』ができない危機になる。
もっと具体的に上記の事に反論するなら、『人間が絶滅して他の生物が生き残る状況』を説明するのが良いと思う。
まずは『恐竜が絶滅したのと同じ巨大隕石が落ちてきた』としよう。人類は多分滅ぶだろう。短期間の異常環境なら技術力でなんとか出来る。しかし万を越える年月では絶えれないだろう。太陽光が地球に届かなく食料が手に入らないから。
この条件で生き残れる生物は冬眠が出来る生物だ。爬虫類、植物の種子、微生物など。人間など恒温動物は気温が低くても体温を高温に保ち動けるが、その為に変温動物の10倍の食料がいる。また人間は知能を発達させた為に体重の2%の脳が20%のエネルギーを使う。
隕石衝突は科学技術で回避できる可能性が高いが、観測機などの故障などで起きる可能性は高い。また火山の大規模噴火や連続噴火で起きる可能性は高い。過去に地球が
全球凍結になった事もあるがこの場合も同じだ。
生物の中にはマグマ(だったかな?)の高温の中など、信じられないところでも生きられる生物がいるかもしれない。それらと人類どちらが、全滅しにくいと言うのも難しい。
地球上の変化での耐久度であれば、信じられない生物の方が上だ。しかし隕石などによって、地球がなくなるという事もある。
今はまだ無理かもしれないが、地球なしでも人類は生きていけるようになると思う。
とすれば地球消滅とい事に関しては、人類の方が耐久度は上だ。
植物の中で種子を動物にくっついて、種を遠くに広げていくものがある。移動力の大きい高等動物が生まれたのは、移動力のない種を遠くに広げるという事も理由の一つかもしれないと思う。環境への耐久性は強いがあまり移動できない。だから運んでもらう。
大きく複雑な生物になればなるほど、環境への耐久性は下がる。しかし耐久性の高い小さい生物は、あまり移動出来ない。それらは、一定の地域だけ襲う絶滅の危険には弱いという事だ。だから生物全体が全滅しない為に、耐久性の高い小さい生物を広げる為に耐久度は低いが移動力のある大きい生物を作った。
人類が宇宙へ行こうとするのも、生物の本能であると思う。自分たちが全滅しない為でもあるが、生物全体が全滅しない為に。
だからどんな遺伝子も長短があると思う。しかしある環境で短所である遺伝子を持つ生物は、その環境の間は他の能力で生き残れなければ絶滅してしまう。逆にある能力がフルに活用できる環境にいる時、その能力を持っている生物は繁栄するが、その環境に適応しすぎて環境変化に弱くなる。
※僕は2回しか書き込み出来ないのでこれが最後ですが、まだ何かあれば上記 URLに書き込みしてください。
すいません。僕の聞きたかったことは、「よいタネ」を残すということ、またそれに伴う偏見、差別はいいことなのか、悪いことなのかはっきりしたい、ということなのですが、質問文が不完全でした。どこに価値を見出すかにかかっていると思います。いろんな価値観があると思いますがその価値観を知りたいと思います。