こちらに、1995年以前の宗教思想(神・特攻隊的?)と関連性が書かれています。
http://homepage3.nifty.com/mana/miyazaki-nausika-main.html
風の谷のナウシカ(スタジオジブリ)
ナウシカ論。
ナウシカの思想についてすごく丁寧に
掘り下げています。まだ制作途中のようです。
ナウシカの聖女性について。
すみません、該当の本が実家にあって今見られないので、あいまいな記憶で分かる範囲の事をお書きします。
また、自分の覚えている以外にも、同様の論争があったのかもしれません。もっと良い答えがありましたら、ポイントはいりません。
1984年11月発行の季刊雑誌「SFの本 6号」(新時代社)に載った映画評論家、田中千代子氏による「ナウシカ」論が発端だったように思います。この中に「ナウシカの自己犠牲は特攻隊を思わせる」という様な趣旨の文章がありました。
これに対し読者から「ナウシカと特攻隊を同一視するとはなにごとか」という投書がありました。そして7号でその読者の投稿と共に田中氏の反論も併載されたのです。たしか「自分が書いたのは『特攻』という行為の持つ普遍的な美や高揚感についてであって、ナウシカは右傾しているからけしからん、とかそういったことを書いたのでは無い」という趣旨の文章だったと思います。
当時、ナウシカを語る視点としては目新しかったため、SFファン(=当時のおたくのボリュームゾーン)の間ではそれなりに話題になったように思います。
なお、吉本隆明も84年の9月に、ナウシカのクライマックスを太平洋戦争における自己犠牲に重ね合わせるような論評をしていますが、こちらは特に論争のような事は起こらなかった様に思います。
ありがとうございます!!多分それです。
当時書店で立ち読みしていたものの年齢的に内容についていけなかったのですが、いま改めて読み返そうと思っても掲載誌も忘れてしまったので・・・。
その論考をきっかけとして、いくつかの(当時の)おたく系雑誌に飛び火したよう覚えています。
吉本隆明氏のは多分未読で、これも大変ありがたい情報です。
おかげでかなり明瞭になってきましたが、もう少しだけ情報を募集します。よろしくお願いいたします。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4163466606/250-0173084-...
Amazon.co.jp: ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義: 本: 佐藤 健志
質問の主旨からは外れるかもしれませんので、ポイントは不要です。
ナウシカ特攻隊論は、『さらば宇宙戦艦ヤマト』で巻き起こった特攻隊賛美論と同根というか焼き直しでしょう。そこら辺の類似性とかの論考は、上記の本に詳しいです。左翼陣営からのヒステリックな批判はありましたが、大変優れた著作だと思いますので、賛成するにしろ反対するにしろ、一読されて損はないと思います。
http://www.doblog.com/weblog/myblog/6362/363704#363704
Doblog - 平成鸚鵡籠中記 -
ちなみに自分のBlogでも、簡単に言及しております。
もっと言えば、手塚治虫の「鉄腕アトム」も雁屋哲の「男組」も、ラストは特攻隊的な形で終結していますね。手塚・宮崎・雁屋という思想的には左に分類される巨匠が、揃いも揃って特攻隊的なものを描いているところに、『風の谷のナウシカ』に留まらない、根深い問題があるように思います。たぶん、忠臣蔵がその背後にあると自分は睨んでいますが。
ありがとうございます。なるほど。ナウシカに限らず、日本のアニメの多くで特攻隊的な決着のつけ方が見られるというのは確かにそうですね。
これって、日本のアニメ作品に顕著な傾向なんでしょうか。海外の作品などではどうなんでしょうか?
いろいろ考えさせられます。
http://d.hatena.ne.jp/otokinoki/20050621/p2
さて次の企画は - 「ナウシカ特攻隊論争」について思いっきり補足してみました(愛・蔵太の気ままな日記より)
偶然ではありますが、先週の神田古本市において「SFの本 7」(スタジオアンビエント+新時代社)を入手していたため、この話題に関しては多少補足が出来るかと思います。手元には7号しかないため、周辺的にどのように広がっていったかに関しては分かりませんが、「SFの本 7」においては、この論争に関して、177P~186Pとかなりの頁数を割いています。
「SFの本 6」に田中千世子氏の「『風の谷のナウシカ論』-『さよならジュピター』との比較において-」という評論が掲載され、それに対して「SFの本 7」において、これに対する反論として吉松成一(国立市)という方が書いた「田中千世子女史への反論」というのが、契機となったようです。それが掲載された7号に再反論にあたる「『風の谷のナウシカ論』Part2」というのが掲載されています。
手元は、元の評論である「『風の谷のナウシカ論』-『さよならジュピター』との比較において-」がないのと、反論・再反論ともに幾多の参考文献をあげての長文であるため、かなりおおざっぱな論点整理になりますが、以下のような形にまとまられる。
●田中千世子氏
「特攻」というのをあくまで美学の一つとして見て、ナウシカには特攻の美学があり、それはそんじゃそこらにある(「さよならジュピター」や「宇宙戦艦ヤマト」などに見られる)形骸化した自己犠牲ではなく、その行為が自己犠牲であることを忘れさせるほどの激しくて純粋な自己犠牲が見られる。
●吉松成一氏
ナウシカの捨て身の行動は、「自己犠牲ではなく自己実存の行動であり、自己実現の行動である」。宮崎駿監督が、おこなった制作サイド周囲の発言を見る限りにおいて、宮崎駿は未来に「絶望」しているのではなく、「この世はやるに値する」という姿勢が、東映労組での活動や『Comic Box』でのインタビューに見られる。
といった感じでしょうか。
少し印象深いのは、吉松氏が反論内において、田中氏の評論を「犯罪的である」というかなり強い口調で避難している点です。以下、末尾の結びの言葉を例に見てみましょう。
>>
(前略)以上、長々と書きましたが、それは『ナウシカ』というすぐれた作品に対する、特攻隊云々の冒涜を許せない一人のファンの気持ちからです。私は、『SFの本』の評論の質の高さを評価していたのですが、今後このような低俗かつ犯罪的な評論が横行することのないよう希望します。
『SFの本』編集部のみなさんへ
<<
また、田中氏の再反論の末尾には編集部からの言葉が記されており、反論・再反論といった論争をあおる形での一文です。おそらくこれが契機となって、他の雑誌にも飛び火する形での「ナウシカ特攻隊論争」となったのかもしれません。
>>
本誌六号の田中氏の論文に熱のこもった反論が届いたので、当の反論と田中氏の回答を掲載しました。大部長くなってしまいましたが、まともな論争の少ないSF界にとって、こうしたヤリとりは歓迎すべきものと思われます。特に、両人の論点の交錯する地点に美学があるのは編集子にとっても興味深いところです。浅田某の言う砂漠の時代において、美学は重要なテーマだと思えます。読者の皆さんはどのように感じられたでしょうか。感想をお寄せ下さい。宛先は『SFの本』編集部までです。
編集子
<<
その飛び火した中での、論争の展開は分かりませんが、田中氏の再反論の中にある、「さよならジュピター」「宇宙戦艦ヤマト」との比較というのは、それぞれにファンの多かった作品でもあるので、かなり飛び火した先でも華やかな論争が繰り広げられたであろうことが、予想がつきます。
後は余談になりますが、どうやら『SFの本』編集部においては、こうした論争をあおることによってSFを活性化しようという意図があったように思われます。この編集子自体の文章からも、浅田某=浅田彰に対する揶揄が感じられるところも面白いです。時はまさにニューアカブームのまっただ中な訳ですから。
ありがとうございます。ダイアリーの方も拝見させていただいておりましたが、ここまで詳細な回答をくださって、感激しております。
otokinoki様のダイアリーに書かれていた「巽×山形論争」と、この雑誌が「SF」(zeroset様のおっしゃるように当時の「おたく」のボリュームゾーン)の雑誌であることを考え合わせますと、「オタク」対「サブカル」の対立の萌芽が見て取れるような気がします。
それでは、今回はこれで終了します。回答を下さった皆様、本当にありがとうございました。
ありがとうございます。リンク先の論考はどれも興味深いものでした。感謝いたします。ただ今回の質問の趣旨(「当時の」論争)とは異なっているようです。できれば当時の論客や掲載誌、それに対する反応等があればありがたいです。