※その回答は自己評価で何ポイント相当か、併記してください。
自分は良くないと思います。
何故ならテレビや本などで人が殺される場面とかを今はよく見かけますが、それを今の子供が見たら人を殺すということがどれだけ重大なことかがわからなくなると思います。しかしテレビなどでは犯人は必ず痛い目にあうのでまだマシなほうかと思うのですが問題はゲームだと思います。ゲームではどれだけ人が殺されようとリセットさえすれば元に戻るので人を殺してもまた生き返るという考えの子供も増えているようです。
自分の回答は10ポイントほどだと思います・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%82%B...
フィクション - Wikipedia
フィクション(虚構)内の人物は、生身の人間ではなく、現実世界の人間の脳が作り出した「概念」に過ぎないからではないでしょうか。
概念を消す=アイデアを消去する、ことが「現実世界で、してはいけないルールである」とはならないからです。
思いつきで書いたので、3ポイントくらいです。
思いつきと書かれていますが、ひとつの、正統的回答かなと思います。
確かにそうなのですが……と言いたくなりますが、まだ言わないでおきます。
urlはダミーです
自分が作り出したフィクションの世界ですので・・・。
まずフィクションである時点で、現実ではないので、そこで殺人が起きようと、不倫しようと、戦争をしようと、現実には全く影響がありません。
熱烈なファンを覗けば、登場人物が新だって、現実には何も影響はありません。
そもそもフィクションは現実の世界の常識にとらわれる必要はないのです。
よって、死なせてもいいのです。
自己評価・・・15ポイントくらいかな?
「そこで殺人が起きようと、不倫しようと、戦争をしようと、現実には全く影響がありません」
ここは違うと思いますね。
現実に影響がないなら、そんなもの必要がないからです。
http://www.gaga.ne.jp/sophies%2Dworld/
�\�t�B�[�̐��E
構いません。
現実世界の人間は「フィクション世界」の人間ではないからです。「現実世界の人間」は「現実世界」に縛られ、「フィクション世界」には縛られない存在です。フィクション世界内部の人間は、フィクション世界全体の動きを把握することはできません。「現実世界の人間」が現実世界すべてを把握できないのと同じように。
ですが、現実世界の人間は「フィクション世界」を俯瞰し全体を把握することができます。
「フィクション世界」-「現実世界の人間」
の関係は
「現実世界」-「神」
の関係と考えればいいでしょう。
神様は、何をしてもいいのです。
※あまりおもしろくない答えかもしれませんね。10ポイントぐらいでしょうか
では、神がもし存在するとしたなら、
いま世界で起きていることで、神を非難する理由はなにもないということですね?
私は言いと思います。
その理由は、現実世界の人間がそのフィクションを作り出すからです。
つまり創作者には破壊の権利があるということです。
だからといって全て破壊していいわけじゃない。
テレビやゲームのフィクションでも現実世界の人間に大きく影響を与えます。
人によっては現実とフィクションの区別ができなくて、殺人を犯す人もいますから、
そういう面での破壊はNOということですね。
そしてフィクションはどんなにリアルでもフィクション。
以上でも以下でもないなんていいかたもしますね。
それに現実世界とフィクション世界は別もの。
現実ではないので、「死なせている」とはならないのでしょう。
自己評価は、自分的にはうまくまとめられたと思うので20ポイントくらいかなと。
「人によっては現実とフィクションの区別ができなくて」
映画観て泣いたりしますよね。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309242103/
Amazon.co.jp: なぜ人を殺してはいけないのか?: 本: 永井 均,小泉 義之
下記の文章は道徳、倫理、常識というものを一度棚上げして、論理と物理的現象と殺人をしてみたいと思う人の考え方に注目して読んでください。
まず、問題を二つに分けます。
一つは虚構、現実を問わず、「何故、人を殺してはいけないのか」について述べます。
人を殺してはいけない理由は
1.法律で禁じられているから=人殺しが増えると社会が成り立たなくなるから。
2.殺人をするなら、同じく自分も殺されても文句はいえず、多くの人は死ぬのは嫌だから。
大抵の人は上記の理由に納得し、それどころかそれを当たり前のこととして疑いを持ちません。
しかし、仮に「どうしても人が殺したい、そのためになら殺人を犯した後に自分が殺されることになっても、それによって周囲の人間が殺人者の家族、友だちであったことによって社会から非難されても構わない、何故なら、自分はどうしても他に生きる実感を持てる方法が見つからなかった。そして実際に殺人は楽しく、それだけが唯一、生きている時間を持つ方法であり、殺人をして本当に良かった」という人がいたとしたら、その人に通常の法律や道徳で「殺人はいけないことだ」と言っても無意味です。
人を殺してはいけない理由は、法律や道徳や社会通念に同意している人にのみ通用する説得の方法です。
そこで重要なのは生物は一度死んだら生き返らないこと、他の生物と違って、この世の中は他の生物よりも人間の生命(=人権)のほうが大きな価値が認められていること、殺人を(なるべく)しないという取り決めに根拠はないが、それによって社会が今まで存続し、そのことが各人の生活を保障していることになります。
第二に、上記のことは現実世界でも、映画や小説といった虚構に内在した「もう一つの現実世界」でも同じことです。
ただ、現実と小説などの虚構は別個の存在と考えるべきです。現実での殺人は単なる事実性に基づくものですが、表現作品における殺人は単なる事実を超え、何らかの文脈を持ちます。殺人描写を観た/読んだ受け手がそれによって「自分も人殺しを絶対にしよう」と思うかは各人の認識や心情、人生などによって様々に変わります。そして、表現作品において、殺人描写があったからといって「作者の意図とは関係なく」それが殺人を誘発するものか、殺人の悲惨さを描き、受け手に「殺人は良くないものだ」と思わせるかは作品の描かれ方と読者の読解能力によります。
いずれにせよ、虚構において殺人が描かれていたとしても、そのことで直接人が死ぬわけではありません。それを受けた人々の中の一部が殺人の魅力に目覚めるだけで、それは作品だけが原因とはいえません。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061494015/
Amazon.co.jp: これがニーチェだ: 本: 永井 均
第二の問題の捉え方が、わたしの考えていたものと少々異なるようです。
「死なせる」と書いたのは、現実世界の人間はフィクション世界の人間を、病気で死なせたり、自殺で死なせたり、殺人事故災害その他で死なせたり、好きにできるが、それはどうなのか?ということです。
紹介いただいた本は2つとも所有しています。
まだここを見ていらっしゃれば、自己評価ポイントを書いていただきたいのですが。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E7%BD%AA
殺人罪 - Wikipedia
まず、現実世界の法律レベルでは、
・人を殺す行為は犯罪
・人を殺そうと準備する行動は犯罪
・人を殺そうと具体的に企むことは犯罪
・人を殺そうと考えるだけなら犯罪ではない
となっています。
このルールは、フィクションの世界でも同様になります。
つまり、現実世界内、フィクションの世界内でそれぞれ「行為」として殺人すること、あるいはその準備を具体的にすすめることは禁止されているわけです。
http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20041125bf01.htm
文芸2004<10月>「私」と作者の微妙な関係 : 出版トピック : 本よみうり堂 : Yomiuri On-Line (読売新聞)
ところが、現実世界の人間がフィクション世界の人間を死なせるというのは、現実世界を基準に考えれば、それは「殺そうと考える」ことであり、またそれは現実世界での殺人行為に直結はしません(それを読んで行動に出た人がいたら、それは別の話です)。
したがって、(人を殺しまくるようなフィクションそのものの是非は別として)人が死にまくるフィクションを創作することには問題がない、ということになります。
フィクション映画で人が死ぬ場面があっても、実際にはだれも死んでいないのです。もし死につつある人を撮影したのであれば、それはフィクションではなく、ノンフィクションとなってしまいます。
また、フィクションであれば、人の死をもってしか描けない内容も多いことでしょう。
上記回答は25ポイントくらい。
・死につつある人を撮影したのなら、フィクションではなくノンフィクションとなる
ここ、気づいてませんでした。面白いです。
それを、実際に死につつある人に死の演技をさせているフィクション、と捉えることもできると思います。
2に近いですが、フィクションの世界では同じものが何度でも再生産が可能です。
例えばあるキャラクターが死んだ、としても何らかのかたちで生き返らせるということが作者には可能です。
それだけでなくそれは何度も繰り返し様々な人に読まれます。読まれてる間は生きているわけです。例えその物語の中で死んだのだとしても読まれるたびに生き返るので本質的に殺すことができません。
10ポイント。
なるほど。フィクション世界の中の死は本質的ではない、と。
では現実世界でも、もし「あの世」や「転生」の存在が証明されたら、死なせてもよい、になるのですしょうかね?
(実際、そういうものはある、としている社会も現存するわけですが)
URLはダミーです。
質問の「人を殺す」という行為が現実世界では悪いと言われているのは、殺人という行為に対して発生するメリットが圧倒的に少なく、デメリットは相当なものになるので「してはいけない。」という考えに至っていると思います。
しかし、現実の人間がフィクション世界の人物を殺害する場合は、それほど重いデメリットが発生するわけでも無く、それによって何らかのメリットを得るからでは無いでしょうか。
自分に対して得にならないのなら殺す必要は無いと思うので・・・。
自己評価:13pt
どの軸において、メリット・デメリットを判断するか、でしょうか。
たとえば、現実世界においても、生きていてもお金がかかるばかり、という人はいるわけです。
http://www.hatena.ne.jp/0point!:detail]
私は良くないとは思いません。
フィクションの中での死は、現実の人間に影響を与えますが、でも、フィクションの中で人が死ぬことによって、現実世界の人間(読者)は命の重みを認識し、死ぬまでに、どう生きるかといったことを考えるのではないかと思います。
それに、現実世界の人間もいつか死ぬのですから、フィクションの中の人間がいつまでも死なないというのは、逆に不自然じゃないかと思います。
「求めている回答と違います」
と思ってたら、ごめんなさい。
(多分ゼロポイントかもしれませんね。)
ゼロポイントということはないですが。
ただ、それまでに掲載された回答を見て、自分の回答と大きく変わらないものがあれば、投稿しないのも手かな、とは思います。
(質問者および閲覧者の目を考えると)
http://jiten.www.infoseek.co.jp/Kokugo?qt=%CE%D1%CD%FD&sm=0&...
国語 英和 和英 カタカナ 漢字 - Infoseek マルチ辞書
回答欄に『神』の存在についての議論が見られましたが、
もし神がいるならば戦争も飢えも病気すらも起こらぬ世界が成立するでしょう。
それに人間は他の生物(肉・魚)を食して生きている。。ならば牛や豚や魚は神から見放された
存在なのでしょうか?という疑問に辿り着きます。人間だけの神?ご都合な話です。
ここで私的な解釈を披露するならば、神=人間の良心。悪魔=人間の罪悪であり、
罪悪を悪魔の仕業と位置づける事で『罪悪感』から遠ざかろうとし、
神の祝福を得られると思いこむ事で『善行』への努力を促す。
やがて「殺人は罪悪」という概念が生まれ、タブーとなった。
つまり人間は神という管理者がいると思うことで、善行へと気持ちを向け
結果的に世界は平和へと向かっていくわけです。
しかし人間には正義とか倫理だけでは押さえきれない衝動があり、心のどこかにタブーを犯したい
との気持ちが多少に関わらず持っているのが正直なところでしょう。
そこで殺人の起こる小説やドラマを読む事で、疑似体験し衝動を抑制していると考えられます。
同様に格闘やカーレースなど生命が危機にさらされる内容の物も一般的に人気があります。
それは人間が生命の危機に直面する事で、精神の高揚(ドキドキ感)や生命力を感じるのが理由だと思います。
人間は成功願望の他に、死へ近づく事で快感を得る破滅願望も持ち合わせているのです。
結論として、現実では実行できない事を漫画やドラマなどで疑似体験して精神の安定をとる事で、
タブーを破ることを抑制し、結果的には社会の安定に貢献していると思います。
またフィクション内での現実世界のルールの準用については、リアリティの追求であり、
タブーを犯す際の高揚をリアルに体験するための演出だと思います。
よって、私はフィクション内の殺人は精神のバランスを取るために必要不可欠な存在だと思います。
・・・とは言うものの、正常な倫理観や知識を持てないままに成長し、漫画やドラマの影響を受けて
殺人や危険行為に走る事件も多々起こっております。この件に関してはドラマの弊害であり、
このような事態にならぬよう、幼少期の教育や家庭環境でカバーするしかありません。
※自己評価・・・50ポイント。
うまく表現できていない部分もあるかと思いますが、要点は書けたと自負。(笑)
「もし神がいるならば戦争も飢えも病気すらも起こらぬ世界が成立するでしょう」
ここはちょっと、神に対して純朴すぎる見方だと思いました。
(よくある「神が試練をお与えになった」という概念さえ排除されている)
「しかし人間には」から「必要不可欠な存在だと思います」までは、説得力を感じます。
http://www.msn.co.jp/home.armx
MSN Japan
人間法律がなければ、人を殺したいという欲望を持った人たくさんいると思います。
でも法律があるから出来ない、してはいけないことというのは大人でも子供でも知っていることだと思います。フィクション世界の人間を死なせることはいいか悪いかはその人の考え次第だと思います。
いいと思えば死なせればいいし、駄目だと思えばやめればいいし、私は別にいいと思います。10ポイントは多いでしょうか。
「法律がなければ」って、またシンプルですね。
殺せ系法律(徴兵義務づけとか?)ができてしまったら、従うということですか?
http://www.hatena.ne.jp/1126366449#
人力検索はてな - なぜ、現実では「人を殺してはいけない」とされ、フィクションでもそのルールは概ね準用されるのに、現実世界の人間がフィクション世界の人間を死なせることはよいのでしょ..
殺人は現実ではできないので、
フィクションという画面上の別の世界で、他人事のようにすることで、権利を得ているのだと思います。
ゲームでも、ドラマでも映画でも、ストーリーを活かすために、必要な要素ですが、
特に邦画などは、殺したり死に方に重点をおいてしまい、ストーリーが殺人のインパクトに負けている部分があるので邦画は面白くないものが多いと思います。
最後、ハッピーエンドや、めでたしめでたし。のラストにもっていくために殺人の脚色は仕方ない部分があるのかもしれませんが、
日本人はヘンなところというか、なぜその物語で殺人が必要なのかという訴えかけが必要なときに、殺人の残虐さ・リアルさだけを追求していく方向が強くなりすぎているので、それはよくないと思います。
フィクションとはいえ、死んだ人が死ぬ意味があるものであれば、まだ救われると思います
自己評価は 11ポイントです、
あ、ちょっと視点が違っていて、いい回答だなぁと思いました。
確かに、ストーリー上の必然性とは別の所で、安易に死なせすぎじゃないか、と感じる作品は多いですね。
(そうやって「死の無意味さ(=生の無意味さ)」を書きたい、という場合も、もちろんあるでしょうけれど)
クリック募金 _ クリックで救える命がある。
URLはダミーです。
フィクションというのは、人間社会のアンチテーゼでもあり、問題定義であるともいえるでしょう。
「人を殺す事が善くない」ことはだれでも、疑う以前の平和な人間社会の形成の基礎条件であり、しかし、そこをあえてフィクションという立場において仮説的にやってみせて、「どうなんだろう?やっぱりまずいか。まずいでしょう。」と再確認させる事はフィクションで殺意を描くプラスの価値といえるでしょう。
これはフィクションの創作目的を「実際世界における殺意の撲滅、平和への祈願」とした場合です。
ただし、この手法には賛否両論が潜んでいると考えます。
一つは、例えフィクションであっても、それをノウハウのあるマニュアル本として、あるいは潜在的刷り込みとして、結果的に殺意を肯定してしまう事がある。
殺意を残忍に麻痺し、感じる事が無くなって慣れてしまう事がある。(特にふらついている精神状態において)刹那を誘発させることもある。
ゆえに、殺意を含むフィクションはしっかりした状況に翻弄されない自我がある読者が前提で、自己責任がもてるもののみが閲覧可能とする。
この考え方は、殺意を使用する事を、
なんのヒューマニティもない人間社会を斜に捕らえる面白半分のエンタテイメントとして社会を堕落させる可能性がある事を推測しているでしょう。
ゆえに、フィクションでは微塵にでも殺意を描写すべきではないとする場合もある。
一方で、娯楽の殺意を描く側は、人間は基本的に道徳心があり、フィクションに影響されるはずが無いとする。この両者は相容れません。
しかしながら、
殺意はさておき、死の描写をフィクションから消していった場合、はたしてそこに人生のドラマが生まれるでしょうか。人間心理として、死を考えるチャンスがなければ、真摯な問いかけにはならないように思います。
例えフィクションであっても共感できる人間社会と似通った愚かしいリアリズムが描かれないと読者が真摯に入り込むドラマ展開にはしずらいともいえるでしょう。
つまり、ここには売るためのエンタテイメントの仕掛け、または真摯な人生への問いかけの両方の立場がある訳で、
フィクションのなかで人間を死なせる事が善か悪かという論議において、その良否をきめるのは、結末が平和志向か、ただの娯楽かによるとおもいます。
したがって、平和志向として殺意を人間が陥りがちな儚き過ち=人間の弱さとして否め、結末で愛と平和を謳うのは是ですが、
ただの興業娯楽として面白半分な殺意を描く事は明らかに有害であると判断します。
これはフィクションでなくても、事実を伝える報道においても同じことが言えるでしょう。
結末として、殺意を哀しむ感情が芽生えるかどうか、視聴率確保の為に悪戯に煽ってないか、ここが重要とおもいます。
この程度の事は良かれ悪しかれ常識的回答とおもいますので、10。
ひとつの立場から、丁寧に考察された意見だと思います。
数度読み返していますが、かんたんにはツッコミを入れたり、付け加えたりできないので、止めておきます。
この回答が10ポイントですか?
http://www.critiqueofgames.net/data/statistics/dead.html
Critique Of Games - 死の表現
表現方法などにもよると思います。
明かに現実とフィクションの区別がつく大人が行うのはまったく問題がないと思います。
しかし、その辺りの境がはっきりできない子供の頃からそういった物に触れさせておくのは問題があるかもしれません。
URLはゲームの「敵を倒した」「自分がやられた」時の表現を纏めた物です。
同じシリーズでも時代を追う毎にソフトな描写になっていったりするのは、やはり子供への影響を考えての事だと思います。
小さい時から”自分を邪魔するものを排除する”という行為を日常的に行ってるとやはり問題があるような気もします。
ただ、表現を「死んだ」→「やっつけた」などと変更して露骨な表現をやめただけではこの問題は解決しない、むしろ逆効果かもしれない、と思います。
「殺す」という表現はそのままに、「殺す」という行為は悪い事だ、と認識させつつもそれはフィクションだから許される事なんだ、と理解させる必要があると思います。
ポイントは、、、5ポイントくらいかな。。。
子供へのゲームの影響がもしあるのなら、表現をソフトにするのは、確かに教育的には逆効果かもしれないですね。
なにかある度に「ゲームの子供への影響」が取り沙汰されるのに、毎回有耶無耶に終わるのはなぜなんでしょうね。
検索デスク SearchDesk スタートページ
URLはダミーです。
私はその表現次第では良いことだと思います。
人を殺すことを疑似体験することにより、現実では得られないその怖さを“知る”ことが出来るのではないかと思います。
ただし、その逆の表現のもの(人を殺すことを肯定しているもの)はものすごく良くないと思います。
10ポイントぐらい?
怖さは繰り返すうち慣れてしまいます。そして疑似体験で得られるのは怖さだけではない。
「ものすごく良くない」ですか。ふむ。
http://www2.odn.ne.jp/~cbh42840/index.html
�R���v���b�N�X�E�v�[��
自分は高校生だけど悪いことだとは思わない。。だけどこの作品見てから少しだけ考え方が変わった。
戸田誠二さんの単行本は、最近出た『唄う骨』『化けの皮』を所有しています。
ほかのものも見てみようと思いました。
↑ダミーです。
個人的にはあまりよくないと思いますが、(教育的に)
現在の法律では思想は自由ですが行動となると規制されますよね、
それと同じでフィクションなのですからそれは思想だと思います。
ならば思想は自由ですので、(教育的観点を除けば)よいと思います。
思想も自由でなくす方向に、なんとなく世の中は動いてるような感じもします(個人的に)。
自己評価ポイントをお忘れなく。
http://jiten.www.infoseek.co.jp/Kokugo?sm=1&pg=result_k.html...
国語 英和 和英 カタカナ 漢字 - Infoseek マルチ辞書
補足させてください。
>神に対して純朴すぎる見方だと思いました。
>(よくある「神が試練をお与えになった」という概念さえ排除されている)
それは神が存在すると言う前提ですよね。
神・悪魔の存在は罪悪を抑制するために創造した架空の存在だと考えています。
神の試練は悪魔の妨害とも言い替えられませんか?
これは牧師などが不幸にたいして前向きな気持ちで取り組めるように理由づけたとモノだと思います。
仮に悪魔の妨害と説いてしまえば、当事者には相当のプレッシャーとなり後ろ向きな思いに駆られてしまいます。
>>人間だけの神?ご都合な話です。
この部分に神も悪魔も人間に倫理を持たせるための道具だと表現したつもりでした。
以上。補足でした。
この質問は神・悪魔の存在を議論する場でありませんので、私の書き込みはこれにて終了したいと思います。
この問題に関しては多くの正解が存在すると思います。きっとツッコミどころは満載かと思いますが
それは、また次回の機会にでも。ありがとうございました。
神が存在すれば、という前提においても、シンプルなもののみかただと思ったのです。
(キリスト教では、悪魔は神の被造物とされているのではありませんでしたか)
神の存在に関する議論は、面白いですが、議論の結果で存在/非存在が決まるわけでもないですしね。
またよろしくお願いします。
URLはダミー
人を殺す。これは一つの本能かも知れません、しかし理性というブレーキがまたは罰をがそれを抑制しているわけです。フィクションではその本能が噴出され(飽くまで現実をわきまえている人)一つのうっぷん晴らしになっているのかも?フィクションでは何をしても良いのですから・・
当たり前の事を書いたため、良くても
10点位ですね。
「人を殺す。これは一つの本能かも知れません」「フィクションでは何をしても良いのですから・・」
いえいえ、これが“当たり前”という感覚は、当たり前のものではないんじゃないか?と思いますよ。
ひとえにフィクション世界の人間には「人権」が認められていないからではないでしょうか。
「そもそも『人』とはなにか」ということを考えると、どうでしょう?
「人権」があると認められているモノ(生物?)こそ人である、とは言えないでしょうか。なんだか矛盾してるような感じですが…。
私が思ったのは、たとえ生物学の言う「ヒト」の条件を満たしていても、そのヒトの「人権」が認められていない場合、社会的に言う「人」にはなれないんじゃないか、ということです。
北の「ヒト」たちは将軍様にとって搾取の対象でしかなく、人権などひとかけらも与えられていないでしょう。
彼らは「人」ではないのですから、将軍様は自国民をいくら飢え死にさせても平気なのです。
日本では「基本的人権の尊重」てな形で日本国民の人権は保障されているんですよね。
だから、日本では人は他人の人権を侵害してはいけない、つまり他人を殺すのも当然いけないという風に規定されているんですよね。
倫理観とか宗教観などは関係なく、日本国の決まりとして「人を殺してはいけない」ということになっているわけで。
で、ゲームなどフィクション世界の人間に「人権」は認められていませんよね。
ですから別にフィクション世界の人間をいくら殺そうともなんら問題ないのでは、と思いました。
その内、
「プレイヤーに好き勝手に操作され、無為に殺されていくゲームキャラクターはかわいそうだ。彼らにも人権があるはずだ!」
などと言い出す人が現れて、世論(社会)がその言い分を認めるようなことになれば、フィクション世界の人間でさえ安易に殺すことは出来なくなるかもしれませんね。
これを書いているうちに星新一のある話を思い出しました。
人間に捕まった一匹の地底人に人権を認めてしまって、地下からその仲間達が大量にでてきて大変なことになる、というようなお話でした。人権を持ち、「人」になった地底人たちを理由なしに駆除することは出来なくて、しばらくして地球の表面はしごく平和的に地底人達に乗っ取られた、みたいな。
*はてなに回答をするのは今回が初めてでして、論点のズレたしょうもない意見にも暖かいコメントをいただければ幸いです。。
なんとも適当なものなので…3ポイントぐらいでしょうか。
いえ。むしろ普通の人は「ズレたしょうもない質問だ」と感じているのではないかと思います。
人権とはなにか?と言い出すとまた面倒なので、カッコに入れてしまいますが、それはどこにあるのか?と言うと、「人権を認める人の頭の中にある」わけです。
それがどこかに実際にあり、目に見えるものなら、「ある」ということについては、そうそう食い違いは起きないでしょう。
つまり「人権」自体が、フィクションのようなものではないでしょうか? (みんなが「ある」と言うから、あることになっている)
http://kogoroy.tripod.com/hanzai.html
少年犯罪は急増しているか
現実に殺したら、誰かがほんとに死ぬ。フィクションで殺しても、誰も死なない。
他の誰かが実害をもうむるから悪いのであって、実害をこうむる人がいなければ罪はないわけです。見方を変えれば、フィクション上で人を殺すというのは、実行に移さない殺人計画を楽しんでるのと同じなのかもしれません(不気味ですねえ)。
たいていの人は、別な誰かにほんとうの危害を加えたくないし、それが刑法上の罪であることは自覚してます。残虐なゲームや小説の影響が恐いのは、これは現実に誰も迷惑しないフィクションだからいいんだっていう境界線をわからずに喜んでる人がいるかもしれないことです。。
殺したいという欲望を持つだけで罪ということであれば、現実であろうとフィクションであろうと同じように罪と言えるんでしょうね。でも(僕も嫌悪感は持ちますが)想像することを罪とはできない。法律や警察だって人の欲望まで規制したら逆に別な問題が出ますよね。
※5ポイント!
そうですね。私が、憎い知り合いを、頭の中で殺して殺して殺して、酷い目に遭わせて殺しまくるのは、よいのか?
「境界線をわからずに喜んでる人がいるかもしれない」
これは、“かもしれない”じゃなくて、確実にいるでしょう。
脳機能の解明が進めば、考えていることが良いことなのか悪いことなのかくらいは、外部から判定できるようになるでしょう。
その時、どういう議論が起こるか、楽しみですね。
http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/gakuFrame.html
哲学的な何か、あと科学とか
8です。
>では現実世界でも、もし「あの世」や「転生」の存在が証明されたら、死なせてもよい、になるのですしょうかね?
初めての回答だったのでレスしていいのかとかのルールが謎なのですけどこれに答えたいです。
まず「あの世」はあったとしても現実世界で同じものが再生産されるわけでないのでダメです。
「転生」はこれを信じてる世界ではむしろ人間どころか虫も殺してはいけないとされてるように思います。ちょっと考えてみるにこれも一つのフィクションとして同じものが再生産されるので本質的に殺すことはできないのかな~と思います。
でむしろ問題になりそうなのは上のリンク先の「思考実験」にあるような「どこでもドア」が成立した場合。現実世界で同じものが再生産可能になった時、果たして殺してはいけないといえるのか。あるいはそれが成立すると本質的に殺せない、ともいえそうですがどうでしょうか?(ってこれは質問してしまってるのかなw)
わたしもルールはよく知りませんが、できてることはしてよかったことなんじゃないですか?
おそらくその問題は、最後は「私とは何か?」につながるものだと思います。
何をもって「同じ」と見なすのか、「個人の同一性」は何によって保証されるのか、ということですね。
まえ、こんなエントリを書いたことを思い出しました。http://d.hatena.ne.jp/michiaki/20050709#1120839949
もう一つ、ある人を殺すという事は将来何万人??の人が生まれて来なくなる言うこと。これは道徳的な問題等だけでなくもっと深刻な問題かも?殺すという事は将来生まれてくる命も能動的に抹殺すると言うこと。フィクションは少なくともそれが無いと思います。
URLはダミー
それって、結婚して子供を作る気がない人は、道徳的にマズく、さらにそれ以上にマズい、ってことですか?
その論なら、過程は異なっても結果は同じだと思いますが。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4488104029
Amazon.co.jp: Yの悲劇: 本: エラリー・クイーン,鮎川 信夫
エラリー・クイーンの「Yの悲劇」です。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4041304016/249-3532752-...
Amazon.co.jp: 八つ墓村: 本: 横溝 正史
横溝正史の「八つ墓村」です。
結論からいえば「よい」と考えます。
これらの小説は、推理小説ですから詳しくは語りませんが、現実の人間がフィクションの世界において人間を殺すことについて書いてあります。
質問文を見て、これらの作品が思い浮かびました。未読でしたら一読をオススメします。
ただ、「人が死ぬ」話を書くということを、「フィクション世界の人間を死なせる」とする受け取り方はややナイーヴに過ぎるように思えます。
フィクションの人間と現実の人間は等価ではありません。
というか、「フィクション世界」という世界は存在しておりません。あくまでそれは比喩的表現であって、そこに「人間を死なせる」という概念を持ち込むのは、かえってフィクションとしての純粋性を損なうのではないでしょうか。
フィクション世界を、リアルに存在する世界ととらえるならば、そこで誰かを殺すのは、作者ではなくそこに登場する人物である(推理小説ならば犯人である)ととらえるのが妥当であると思います。
コナン・ドイルは、彼の小説の主人公であるシャーロック・ホームズが、作品中において、先輩探偵であるオーギュスト・デュパン(エドガー・アラン・ポーの小説に登場する)を揶揄する発言をしたとして叩かれたさい、「ホームズの発言は、彼の意見であってわたしの意見ではない」と反論しました。
作中人物をイキイキとしたものとして観賞するのであれば、作者に責任を問うのは筋違いです。
作中人物が、作者によって作られた人形であってその行動の責任は作者が負う、というのであれば、人形を壊したからといって責められる筋合いはありません。
おそらくは、お求めの回答とは違うものになっていると思います。ポイントは0でもかまいません。
私は今、「はてなでの質問にイマイチな回答をよこした○○氏が不幸な死に方をする」という話をblogに書いています。
嘘ですけど。
でもそういうフィクションがもしあったら、どうでしょうね。
本のほうはチェックしてみます(読むかはわかりませんが)。
僕はむしろフィクションの世界では人を死なせるべきだと思います
現実世界では、なかなか人が死ぬという局面を経験することができません
なのでフィクションの世界で人の死というものを経験して、現実世界の生を充実させれればと思います
(ただし北野武映画のように痛みを感じる表現であることが必須です。痛みがないと現実世界でもマネして殺してしまう可能性があるので)
15ポイントくらいだと思います
そういえば私は、人が死ぬ映画が好きです。
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』『セブン』『プライベート・ライアン』あたりが、好きな映画のベスト3ですね。
まず、「現実世界の人間がフィクション世界の人間を死なせること」は不可能だと考えます。
なぜなら、「異なる世界」の住人同士が関わりあうことなどできないからです。きっと「現実世界の人間」は、何か勘違いをしているのでしょう。記号を操作したことで、その記号が指し示す人物をも操作したと思い込んでいるのです。
もしくは、以下のような回答となります。
ここでもしあなたが反論として「フィクション世界とは記号で作られた世界であり、その記号が示すなら、それはフィクション世界の人間の死なのだ」と考えるなら、その記号によって示される死は死でしょうか?
実は、そうだ、とも、違う、とも言えます。私たちは死がしばしば記号であることに直面します(新聞の死亡告知など)が、その記号の羅列に実体を見出せるかどうかは、そのつど異なります。長年連れ添った家族であれば、その名前はそれだけ大きな意味を持ちます。全く知らない名前が死亡記事に書かれていても、多くの場合は忘れ去られる情報として処理されるでしょう。
ここで話を戻します。そうした忘れ去られていく情報の羅列に実体を、大きな意味を与えるために、物語は用意されフィクション世界における人の死が描かれるのだと、私は考えます。
人の生まれてから死ぬまでのように、時間を納得のいく範囲で区切られ既に活動を停止した固定化された情報が、物語です。ですから、物語の中には、必ず死が描かれます。
フィクションは、私たちがそれまで知らなかった死、それが死であると気づかなかった死に、目を向けさせてくれ、その死に実体を与えてくれる物語です。
死は、現実世界であれフィクション世界であれ、必ず訪れる摂理です。それを避けることはできません。私たちはフィクションにおいて示された実体をともなった死を受け止め、もしくは受け入れることになるでしょう。
なお、不死の存在は、つまり神様であり、それらを扱うのは神話、宗教となります。
ですので、例えば「シャーロック=ホームズを殺すなんてひどい!」と作家に抗議の手紙を送り、名探偵を復活させる行為などは、ある種の偶像崇拝と言えると思います。
点数の相場がわからないので、10点、でしょうか。
3秒にひとり死んだりしてる子供達に思いをはせる、という行為は、きっとフィクションですよね。
そんなことがたった3つのアスタリスクで表せてしまうなんて、そうに違いない。
アマチュアで小説の実作をしているものとして気になったので回答しておきます。まず、アホみたいなことを言いますが、殺しているつもりはないんです(笑)。
実感として自分が手を下している感覚は希薄なんですね。なぜかというと、作中ではぼくとは別の人間が人を殺していて、それをぼくは上から眺めて「記録している」だけだからです。
つまり、一人称小説であろうと、三人称小説であろうと、文書であるかぎり、それは「記録」の、ある一つの形態にすぎない。警察が殺人事件の記録をしても殺人罪にはなりませんよね。小説書きの場合はそこに根拠となる事実がないだけの話です。だから、少なくとも作者に罪悪感はありません。
全編モノローグの小説だっていっしょですよね。だって殺している最中に書いているわけじゃないんですから、ただの事後的な記録です。小説におけるあらゆる行動はすべて事後的な記録にすぎないんですよ。
小説以外にもいろんなフィクションがありますが、それらもいちおう「記録」であると考えれば言い逃れはできます。ゲームとかは難しいですけど、あれも記録に可変性を与えたものと考えればしっくり来る。
でもまあ、フィクション世界内において人格を持ったと感じられる人間を殺したのは誰かと問われれば、作者が有罪かもしれませんね(笑)。
これには「虚構≠現実」と平凡に答えるしかありません。正確には「虚構⊂現実」ですけど。
1ポイントで。
あ、待っていた回答(のひとつのタイプ)が。創作者の方に、「キャラを死なせる」というのは、
どんな感じなのかお訊ねしたかった、ということもあるのです。この質問には。
それはつまり、いわゆる「登場人物が勝手に動き出す」という状態を記録したものである、ということですか?
創作した登場人物の人格が確かにリアルに感じられるモノであれば、
それはもう、人の脳を間借りして思考する生き物だ、と言ってしまっていいのかもしれないですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%A...
シャーロック・ホームズ - Wikipedia
いい悪いという表現だけでは片付けられない部分もありますが、どちらかといえばいいと答えます。
シャーロック・ホームズは短編集最後の事件で一端死亡したもののファンからの要望が強く生き返っています。ノンフィクションの世界でこういったことはありえません。
つまり現実の殺人は修復不可能ですが、フィクションなら修復は可能です。
現実の殺人犯が思い直したら被害者はよみがえるなら殺人もよしとできるのかもしれません。
八つ墓村も取上げた回答がありましたが、このモチーフとなった津山三十人殺人の動機もその殺人方法も現実の方がもっと悲惨です。
フィクションである限りある程度の美化が施されます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%A...
あしたのジョー - Wikipedia
日本人にとって印象深いフィクションのキャラクターの死としては、太陽にほえろの刑事たちもそうですが、明日のジョーの力石徹ではないでしょうか。
彼の場合実際の葬儀まで行われています。実際の死と違うのは新たなキャラクターや作品が生まれることにつながります。
太陽にほえろなら、マカロニ、ジーパン、テキサス、スコッチ・・・・。
明日のジョーなら俺は鉄平といった次の作品が生まれています。
実際の死にそういった未来はありません。
30P位かな?
「現実の殺人犯が思い直したら被害者はよみがえるなら殺人もよしとできるのかもしれません」
このとき、いくらかの加害者の目的は、「殺すこと」から「より酷い痛み・苦しみを与えること」にシフトするでしょう。
「最近、残酷な内容の小説やマンガが多い」等の風評が発せられると、剣道を長年やっている私は、「江戸時代の剣道場発祥の状態に似てるなあ」とよく考えます。死の危険が迫っていないと、人はフィクション(江戸時代の場合は、剣道の修練)に死の意味を求めるものなのでしょうか。
==引用==
17世紀になって、日本は徳川家康によって全国が統一されました。徳川家康によって設立された徳川幕府の政策は、その後270年間に渡って国内に大きな戦いのない平和な国家にまで築き上げました。社会が平和になると、人と戦う(殺す)為に訓練していた剣道は、その意味を失い稽古をする人がほとんどいなくなってしまいました。
しかし、世の中は、長い間平和が続くと社会の風紀が乱れるようになります。この風紀の乱れは、政治的にも経済的にも徳川幕府の存続を危うくするにまでなりました。こうした風紀の乱れを正す為の教育手段として、徳川幕府は再び剣道の稽古を奨励したのです。しかし、平和な社会での稽古の目的は、人を殺す為から、人を生かす為に変わりました。稽古をして相手を打つことは、相手を殺すためでなく、相手を活かす、即ち相手の成長を助けるために稽古をするようになったのです。
==引用おわり==
私自身、剣道を真剣に行っていた高校-大学時代に、「このままやり続けていたらいつか人を殺す時がくる」と悩んだ時がありました。試合中は目の前の相手を殺そうとしているわけですし、対戦相手は完全に怯え屈服したり、混乱してフラッと前に出てきたりするわけです。
このあたりの感情が、「自分が書いている小説のキャラクターを殺す」に通じるんじゃないかと(勝手に)思ってます。
スポーツとして剣道の試合をしている私(現実の世界の人間)が、殺す/殺されるの擬似関係の渦中にいる(フィクションの人間)人を殺そうとしているのではないか・・・。この状態を感じ取って「恐い」と過度に思う人が、残虐な内容のゲームや本に敏感に反応して「教育によくない」というのではないかと考えます。
しかし逆に、殺す/殺される の疑似体験(小説を書く、読むなども疑似体験に十分含まれると考えます)をすることにより、そのことによる心境の変化、環境の変化、周りからの自己への評価、判断を、少しだけでも理解し学び取るチャンスが出来ます。人が死ぬ事に関しては、「経験者が語る」ことは出来ませんから、
実世界の人間がフィクション世界の人間を死なせることはよい
と思います。上記に書いたように、私自身も「フィクションで人を殺す行為」が恐い時期がありました。今では、それも含め学ぶ過程だったのだと思えます。恐ろしいからと言って学ぶチャンスを(特に、大人が子供に対し)奪うというのは、私はあまり好きではありません。「相手を活かす、即ち相手の成長を助けるために稽古をするようになった」という流れで、文化も進んでいったらいいのになあと思っています。
ポイントは2点くらい。
おー、とても参考になりました。ありがとうございます。
なんだか、剣道やってる人の回答っぽいです(そうなんですが)。鮮やか、というか。見事、というか。
フィクションの中で人を殺してもよいというのはただ単に法律的には取り締まっていないから許されているだけです。
フィクションの中でも人を殺すのは善いことではありません。想像の中で人を殺すのと、現実での殺人とは、もし神が存在するなら、同じ価値でしょう。
※自己評価ポイント 30ポイント
J曰く「誰でも情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」
みたいなものですか?
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フィクションの世界ですから死んでません。だからいいのです。嘘・仮想の世界ですから。あなたも今晩夢を見て誰か死んだら責任取りますか?ポイントは1250
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062732947/
Amazon.co.jp: 有限と微小のパン―THE PERFECT OUTSIDER: 本: 森 博嗣
(まずは参考図書 森博嗣のSMシリーズの最終作では、フィクションの一種である人間を投影した3次元像が現実人間を殺すというかなり興味深い謎が提示される。)
フィクションにおける人間すなわちキャラは文字の羅列でつくられた記号であり殺すことはできない。
ここでいう「現実人間がフィクション人間を殺す」における動詞としての「殺す」には文脈上の無理がある。3次元の人間が2次元に入っていくことは、通常、できない(言葉で実現しても、それは投影にすぎない)。空想の住人の住むバーチャル空間に投影したとしても、実際に人間が入ったわけではない。
つまり、「現実人間がフィクション人間を殺す」という表現は、もとより比喩的であって、フィクション人間の存在を無くすることができる現実人間の全ての動作を包含している。
私では、以下を想起した。
1.自分の購入し所有するメディアを破壊し忘れ去る(クソゲーだった・・)
2.換骨奪胎した二次創作をひろめてゆがんだ人間像に入れ替える(**さまと**さまは愛し合ってるのよっ)
3.自分でフィクション人間を創作しておきながら推敲・校閲で思い直し不使用にして世に出なくする(この語り部キャラうざいな・・そうだ主人公が二重人格にすればいい)
4.自己の創作するフィクション中で死亡(老衰、行方不明、自殺)とさせる(シャーロックホームズ最後の事件で滝つぼにおちた)
5.自己の創作するフィクション中でフィクション人格によりフィクション人格を殺させる(殺人を地の文に含むフィクション)。
6.他人の創作したインタラクティブなフィクションをプレイするにあたり、フィクション人格になんらかの死亡を連想させる障害を与えようとする動作を試みる(映画中にある役がでたときだけ騒音と光を入れて見えないようにするとか、ドラクエなどのゲームで非プレイヤー住人にむかって武器を振ってみるとか
7.マルチプレイヤータイプのインタラクティブなフィクションをプレイするにあたり、相手キャラが非プレイヤーかプレイヤーかにかかわらず(または知ることなく)、武器を振るうなどによって行動不能にしようとする(暗殺という行為が存在するマルチプレイヤーゲームが存在する)
これらの行為は、いずれも「日本の刑法の殺人罪」に問われるものではない(例示の森作品のように、逆ならもちろん問われる、人が死んでるんだもん)。殺されるフィクションは記号であり観念であり投影であるから殺人にあたらない。ただし2.は著作権法違反であるし、7.をハックやチートによって行えば運営側から不正アクセス禁止法による刑事訴訟かアカウントバン(アカバン)を食らうおそれがあるし、6.で相手が死んじゃったりして、予想以上につまらないゲームだとおもえば自分が損するけど、クソゲー買わされたからといって損害賠償は求められない。7.では暗殺以外にだって、アイツはチートするとか強欲だとか補助がヘタとか悪い噂を流すことも相手のゲーム内地位上の抹殺にあたるかもしれない。ただ自分もアカバンされるかもしれないので、もっと楽な手段で、相手が自分の目に入らないよう違うサーバ、違う時間帯で行動すれば、主観的には相手の存在を簡単に抹殺できるように用意されている。
ただし、意図しない害という意味では、バトロワとか、「あと味の悪い小説
http://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2005/08/post_daec.html
わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる: 劇薬小説を探せ!
」に挙げられているような小説とか、シューティングゲームのうちいくらかのものは、フィクションという投影であっても、人間性をもてあそぶような殺され方をされていることがあり、これは人間の尊厳やら運命という現実では太刀打ちもコントロールもできない状況を、倫理的必要性もなく思念上だけでももてあそぶ方法を提示し、他人に広めるわけ。そういうのは常識の確立した成年である受け取り手に与える分には思考の枠をひろげる善の面もあるが、倫理の確立していない未成年にむやみに教えるのは(殺人にかぎらず)社会的にみて悪としかいえないことがある。だからもしこれから規制されるなら、著者がキャラ殺人にあたる表現やその他の表現により、現実人格への洗脳(人間が死んでも確実に生き返ったり転生する、幽霊になって行動できるなどと信じこませるとか)などの有害な結果を起こした場合に対して与えられる場合であろう。しかし受け取り手が年齢にかかわらず未発達すぎる人格だと何読ませてもキャラが死ぬだけでダメなこともあるんで、結局今のところは一人一人が常識で判断しろとしか言えない。
まあ、12国記じゃないけど、神や運命に、なぜ人は死ぬように造られたのかとか、なぜここはゲームの中の世界みたいじゃないのかと怒りや呪いを吐いて青春をすごすのもある意味では必要な通過儀礼だと思います。
45ポイント。
ご満足いただけましたか?
十二国記は全部読んだかな。もう忘れてしまいました。
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虚構のキャラクターが、「人を殺してはいけない」というときの「人」に含まれないと一般に考えられているのは何故か、という質問ですね。たしかに虚構においても、感情移入しているキャラクターが死んでしまうと、悲しい気持ちになったり、喪失感を感じたりします。また、25番のコメントでid:michiakiさんが仰っているようなことを自分がされると、不愉快な気持ちになるでしょう。
しかし、これは単に「読者・観客に不快感を与える創作物を公表してはいけない」という話であり、「人を殺してはいけない」とは別問題ではないでしょうか?
また、22番のコメントにおいて「私が、憎い知り合いを、頭の中で殺して殺して殺して、酷い目に遭わせて殺しまくるのは、よいのか?」と問題提起されていますが、「考えている内容が善くないこと」だからといって、「考えること自体が善くない」わけではありません。これを同等のもの考える宗教もあるかと思いますが、我が国では内心の自由(内面的な精神活動の自由)が重んじられており、また宗教色も薄いので、やはり別個のものとして考えるべきでしょう。
そもそも、「人を殺してはいけない」というのは、社会の構成員の生存権を保障することにより、秩序を維持することを狙った約束事ものだと思います。「社会の構成員」の範囲を厳密に定めることは困難ですが、少なくとも、実体も、意識も、意思も持たない虚構のキャラクターが含まれないのは明らかです。仮に彼らに生存権を認めた場合、社会の秩序維持には何らメリットは無く、むしろ自由な表現活動が阻害されることに伴う混乱と悪影響だけが発生します。
ゆえに「現実世界の人間がフィクション世界の人間を死なせること」は、「人を殺してはいけない」という行為規範に抵触しないものと考えられます。
この回答は、自分の中では筋が通っていますが、id:michiakiさんの問題意識に沿ったものではないような気がするので、5ポイントが妥当だと思います。
「彼らに生存権を認めた場合」 ここはちょっとグッときました、なんでだか。
たぶんわたしは、もっとすべてが、あいまいになってしまえばいいと、思っているのでしょうね。
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では、質問を締めさせていただきます。
今回の個人的ヒットは、17番で教えていただいた戸田誠二さんのwebコミックのページですね。
持ってない単行本3冊を、アマゾンでまとめて注文してしまいました。
「人を殺してもまた生き返るという考えの子供も増えている」
という考えの大人の割合はどのくらいなんでしょう。