この場合の生命とは自我意識と肉体を合わせて生命です。参考になるかどうかはわかりませんが、生命も一つのエネルギー体と考えて
以下参考のURL
http://web.sc.itc.keio.ac.jp/~funatoka/pavlov/law_energy.html
更にもう一つ参考URL
http://sgi.daa.jp/gohyaku/index.html
やっつけ仕事のような回答と説明できませんという回答はご遠慮ください。
ご期待に沿った回答になるか分かりませんが生物学的な観点から説明をさせていただきます。URLはダミーです。
基本的に「生命現象はすべてDNAの保存を目的としている」というスタンスに基づいて説明します。DNA保存を考えると一個の生命が消えてなくなる事は永遠の生命観と矛盾しません。DNA保存の意思は人間や動植物一つ一つの意思ではなく、もっと深い何か、科学的に言えば「自然科学の世界の法則」であり、それを擬人化し、意思と呼ぶことで「生命にはDNAを保存しようという意思がある」という理屈が成り立つのではないでしょうか?
tabukenさんのおっしゃる内容でもっとも説明が困難だったのが自我意識についてなのですが、これも個々人の意識と捕らえるのではなく上記の自然の法則=意思と捕らえる理屈で「意識は終わらない」ということができるかと思います。肉体の方も、DNAを生命の本体と考え、体を乗り物と考えれば「乗り物が違うだけで生き物は皆同じ仲間だ」と言う理屈が成り立つとおもいます。
私の理屈にはかなり無理やりなところがあるかもしれませんが、なにか明確な方向へ向かう習性と、それに関連する物質があればそれは永遠という概念に一番近いものになるのではないでしょうか。
つたない文章で申し訳ありません。でもやっつけで書いたわけではないので許してください。
Yahoo! JAPAN
とてつもなく永遠という言葉の定義が曖昧です。とてつもなくという言葉は主観的量を示す言葉であり、論理的検証に用いるには不適格です。
また、永遠という言葉と生命の定義も非常に曖昧です。
曖昧であればこそ、次のような証明ができます(突っ込みどころ満載ですが)。
生命が永遠であることの規約的肯定論
以降、存在するという意義を次の観点で見る。
物理的に絶対的に存在することを存在である。無であることが存在しないこととみなされる。
1.何者も存在する以上、存在するという時点でエネルギーを有する。エネルギーがゼロの状態とは即ち無の状態である。
2.存在する以上それは存在している。存在していなければ存在していない。
3.存在することを生命を持つと呼称する(仏教の定義ではこれが正解か?)
4.エネルギー保存の法則により、世界にはエネルギーが存在している。エネルギーがない状態を世界とは言わないので、エネルギーがない世界は存在しない。
5.故に、可能であるどのような世界にも生命は存在している。
6.5.より、生命が滅するということは定義によりありえない。よって、生命は永遠に不滅である。
ちなみに、私見ですが、あらゆる学問はあらゆる見解に合致させることができるように思われます。仏教思想と科学を一致させるのは非常に簡単ではないでしょうか。同時にキリスト教と科学も、サタン信仰と科学も、合致させることができるでしょう。
論理学の立場ではどのような論でも論理的矛盾がない限り肯定することができますが、それが実情に即しているかどうかは分かりません。
現状に即した形で言えば、私達の宇宙が今ある形ではない形で存在を消してしまう確率の方が圧倒的に高いので、世界が数瞬後に存在しているかどうか検証できません。同時に、世界は数瞬前に作られたかもしれません。
解答とずれますのでこの辺りで。
論理学の立場からの解説ですね。ありがとうございました。
http://www.kazokuso.net/shikai/buddhism.html
死界 −家族葬・海洋葬ネット−
仏教で定義している生命は「自我意識と肉体を合わせて生命」とは違うものだと思います。と前置きして
以下上記URLより
本来、仏教では霊魂の存在をみとめず、生も死もありません。釈迦は弟子のマールンクヤに死後の世界について質問され「今すべきことをせずに、わかりもしないことを考えるのはやめなさい」と教えています。
死後の世界はあるか、ないか。有か無かとの問いに、是(ぜ)とも非(ひ)ともこたえないのです。こうした観念の遊びは苦悩の解決や人間の救いに役立たないという意味です。
(中略)
諸行無常であるからこそ、必然的に諸法無我(すべての事物は我(永遠不変の本質)をもたない)であり、いま人間として存在しているわたしたちは、無数の因縁によって仮に存在しているにすぎません。それがこわれたときに肉体の死がおとずれますから、死後の世界にまでも、永遠に存在しつづけるような我(個としての実体)や霊などはありません。
そもそも生命をどのように定義するかということは未だ議論の耐えないところであり、定義の仕方ひとつでどのようにでも解釈可能です。たとえば宇宙そのものを生命と認めるのであれば、永遠であろうと言うことができるわけです。そのまた逆も可能で生物はタンパク質でできたロボットであって生命自体存在しないと定義することも可能です。
結局回答になっていないですが、原始仏教は非常に奥が深いですので勉強されてみてはいかがでしょうか。
私は、霊魂説と死後の世界を支持していません。しかし、宇宙そのものを生命ととらえる事を支持しています。また、人間も一つの小宇宙であると思っています。
―Snownotes, 小説の書評やレビューや感想たち。
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仏教とよばれているのがどんな仏教か分からないのですが、原始仏教(仏陀自身の教えを中心とする)の中では輪廻からの解脱というものがあります。
そこを考えると仮に魂というものの存在を仮定するならば、一つの魂が限りなく永遠ではないという事になります。
もしかしたら全ての魂が解脱するまで生命が続くのかも知れないです。
突き詰めれば生命も原子によって構成されているわけですから、それが循環しているという面で生命が永遠な事がいえるかと思います。
原子は恒星の核融合によって水素からヘリウム、リチウム……と作られています。
地球上で言えば確かに半減期が永遠ではないにせよ、途方もない時間生命を構成する原子がなくならないということを考えれば、太陽の存在もあいまって永遠に近いものになると思います。
釈迦が晩年に説いた法華経の寿量品では、釈迦が五百塵点劫という遠い昔に成道を得たと説かれています。法華経では法華経以前の経文では許されなかった悪人と女人の成仏が、法華経によって悪人と女人の成仏も共に許されるのです。それまでの経文では長い間輪廻をくりかえしながら修行をして悟りを得なければ行けなかったのですが、それが法華経によって成仏が許される。つまり、民衆に成仏の差別をなくし万人に成仏の道を示したのが法華経なのです。法華経が釈迦の説いた経典の中では最高の教典と言われるのはこの為です。五百塵点劫について私はこの五百塵点劫という数字は生命の永遠を表す為の比喩であると思っています。釈迦は経文の中で比喩を用いて法を説く事がたびたびあります。常人には永遠と言うことが信じがたい事だから比喩を用いたのです。もし、生命の輪廻が有限ならばそれ以前は何だったのか?もし、輪廻が完全に終わるとしたら、その後はどうなるのか?私は、完全なる無から有は生まれないと思うし、有が完全なる無にもならないと思っています。もしそれが、経文にあるならば示してください。
それから、法華経に曰く釈迦が久遠実成を説いた時に、信じることができずその場を立ち去った愚かな者たちもいたそうです。
takos888 氏へコメントの補足をします。諸行無常は仏教の一分ではあっても全体ではないと思います。諸行無常だから個への執着もこの世への執着も捨てよ、という解釈ですか?私はこの世が諸行無常で個の不変がないということは、決して普遍的な真理すらもないということでは無いと思います。普遍の真理のもとで自分も環境も常に移り変わるということでは?物事は常に移り変わる例えば、今は若々しくてもいつかは年をとり死を迎える。いかに大金持ちであったとしても死を迎えるときは財産を持ってはいけない。時代も社会も瞬間瞬間に移り変わり常に一定ではない。だから心が大事、今なすべき事を考えよ。自分の命を鍛え磨き上げよ。という意味と解釈しています。だからこそ、生命観が大事です。生命は普遍の真理と考えています。それから、さらに補足します。
自我意識と肉体を合わせて生命と質問文に書いたのは、生命というとどうしても精神性を無視して生物学的な解釈をしようという動きに偏りがちですので、精神性も含めて解釈してくださいという意味でこういう質問にしました。仏法には生命について色心不二の法門もございます。心と肉体が不二で生命であると言う考えです。それから、依正不二という法門は環境と自分の生命が不二であるという考えです。私の場合は日蓮仏法と法華経を元にした解釈で話をしています。生命とは宇宙であり、宇宙もまた生命である。と言う考えも日蓮仏法からの発想です。自分勝手な思いつきで発言していたわけではないので、誤解無きように。
ありがとうございました。仏教では石ころのような物質にも生命があると説きます。また、科学者の中に「地球ガイア説」を説く人もいます。これは、地球そのものが、一個の生命体ではないかとする説です。私は仏教思想と科学はどこかで一致するのではないかと考えています。