まず読点について。その1
その2。付け過ぎると読みにくい、というのが一番の問題ですかね。
で、文体の癖の心理学的解説の例です。
文章心理学として研究されている方々がいるようです。
読点の多い文章を異常な(仮に悪文)とみなす貴兄には小森陽一「悪文のすすめ」(ISBN4-13-053069-0 シリーズ学びと文化2『言葉という絆』所収)をすすめます。
> この人の文章も読点が多いなあ.電波な人の文体の特徴.
と、この人も言っておられます・・・。
読点は「朗読する際に半拍休む場所」
http://www001.upp.so-net.ne.jp/acacia/shinri/settoku.html
あかしあのホームページ・説得する
> 人を説得するときには、高い声で早口に話すよりも、落ち着いた低い声でリズミカルに話したほうが、説得力が増します。
「精神的におかしな人」ではなく、「何かいいたいことがある人」「何か考えながら文章を書いている人」のようには考えられませんか?
「何かを考えている人」が転じて「自分の世界に入っている人」になるということがあるかもしれませんが・・・。(笑)
なるほど、参考にはなりました。
おはようございます。筒井はたいていの文学的実験をやりつくしています。句読点についても同様で、ご一読を薦めます。
野坂さんも変わったかたではあります。しかしたとえば、、小林信彦がまだ新婚時代、野坂さんは小林のまだ立てないあかちゃんが二階にあがりかけては階段を滑り落ちるのをみて、無断で業者を手配してしまい小林宅に柵をつくりつけてしまいました。小林はその数十年後に書いています「奇妙なヒトである」。これ、どういう意味だと思われますかね
”コルベ神父は絶滅収容所で別の男の身代わりをわざわざ
申し出て亡くなったが、別にたいしたことじゃない、特に驚嘆すべきことではない。なぜならば:コルベ神父はそう
しないと生きていけない、その行為は彼の存在意義だったからだ、彼はそうすることが彼の生き方にかなっていたから
そうした、要するに彼はそうすることが彼の価値観にあっていたから、ぶっちゃけ、気持ちよかったからだよ。”
という文章があったとします。あなたは精神の異常性をかんじるかもしれませんが、私は同様の表記をする書籍を持っています。ロベール・メルル「イルカの日」
九州大学医学部付属病院精神科行動療法研究室
のHPです。下のアドレスは、その中のものです。
私も読点をよく打つほうなので、興味があって調べてみました。私の推測でしかないのですが、強迫神経症の症状としてあるのではないかと思ったりもします。HPの中にはそれにはっきりと該当するものはありませんでしたが、下記の文章と根の部分で共通しているのではないか?とも思いました。
適物の位置や対称性に関する異常なこだわり
切な言葉を使っていないのではないかという心配
幸運な数、不吉な数に関する過剰ななこだわり
ご期待に添えないものでしたら、すみませんm(_ _”m)ペコリ
最初の回答者の方にならい、書物の紹介ページです。
この中にでてくる三冊ともおそらく日常的意味で限って言えば、「良い」文章の書き手を目指すには良い書物なのではないでしょうか。
ただ、ご存知のとおり、文体というのは、個々人に与えられるものです。例えば、太宰治は結構、読点が多いです。そして読点と読点の間も長い(事が多い)です。彼はたしかに精神を病んでました。ですから自殺をしたのでしょう。
でも、それは小説と言うものがそもそも、ジャーナリズム(この貼り付けたURLで紹介している本多勝一は『殺される側の論理』等で有名なジャーナリストなもので。)とは目的を異にしていることからくるものだと理解することもできないでしょうか。
つまり、小説は作家の世界観というフィルタを通して世界を見ようとし、そこから人間の営みがたった今どう変わろうとしているか、あるいは全く変わらないのかを描こうとする目的のものです。必定、日常的な用法では描ききれないようなものを描写するために言葉を多く費やします。すると、言葉が多くなって氾濫していく。でも、それがないと伝えきれないのです。だから、なんとかして、読みやすくすべく読点を節目として使う。
一方、日常的でない表現である小説との対比をひとつ出します。ある詩人がなぜ詩を書くのか聞かれたときの台詞で、私が好きな言葉があります。その人は、「言葉の日常性を打破するために」と応えたと言います。そのニュアンスは難しいですが、私はこう解しています。
つまり、多くの言葉はパターンで認識されています。ある言葉にある言葉で応じるというふうに、バーコードの符合関係みたいな拘束を伴う。こうきたらこう、という言葉の一定化に苦痛を感じる人間が、詩によって言葉を解体し、世界を新しくつむぎなおそうとする、という意味です。
小説や詩がアートとして礼賛されるのと、ジャーナリスティックな文章が真実をありのまま伝えようとするのと、同じ日本語の文章であっても(それが何語であってもなんですけど)目的が違うから表現形式も異なるわけです。その差異自体に気づかないか、あるいは気づいたとしても興味がないと、実利的に読点が少ない短文のみを好むようになると思います。(それが悪いと言うのでありません、念のため。)
とすると、一概に読点が多いということをもって精神的におかしいということは不可能ではないでしょうか?この再質問に対し断固として「いや、精神的におかしいと言うことは可能である」と言い切るならば、それはジャーナリスティックあるいは商業ベースの会社文書のみを正当として教えているようなタイプの教育からくる立派な偏見だと思います。もちろん、そういう文章を書く人で、実際おかしい人が統計的に多いとか、数値化できる可能性まで否定はできないですけど。
ちなみに、最高裁判所の古い判例をお読みになってみたらいかがでしょうか。むろん、何か特定の事件を問題にしたいのではなく、アトランダムに、ということです。というのは、法律の文章は従来、読点が多いし冷やかしの対象にもなったりした経緯があるからです。しかし、それは分量が多くて読みづらいということを批判されたのであって、精神がおかしいと言う批判ではなかったのではありませんか。
とはいえ、法律系の文章も、最近はジャーナリスティックな観点から是正が入っている観もあります。ですから、読みづらさは認めつつあるのかもしれないですね。
としても、一般的にいって、まずは前述したように、目的別に文章をふりわけるべきです。それをしないと文体についてファシズムが成立してしまうと思います。(誤解しないでほしいのですが、『文体』の種類選択の自由度の話をしているだけで、文法や語法を習得した上でなければ『崩し』も難しいはずだと考えています。つまりどんなめちゃくちゃなものでも芸術的価値を帯びるからいいだろ、というわけでもないということです。)
振り分けをしたことを前提にして、それでも、「文章が簡潔であることによって逆に漏れでてしまうもの」をつなぎとめるため、意識的に読点を入れるという人間もいるのだ、と言うことを理解していただければと思います。
http://www.sonimage.ne.jp/hyouden.htm
評伝の精神態様.。 アントナン アルトー「ヴァン・ゴッホ」を読む
そして参考までに、僕らの側から狂っている、と認定されたが、残した業績はすごいんじゃないの?というような例をここに貼り付けます。
この人は、同じく狂ってしまったゴッホ(銃で自殺)について親近性を感じていたのかもしれないですが、ひょっとすると精神科医の預かり知らぬところで冷静にゴッホを客体としてみていたのかもしれません。
また、サイトの記述をご覧になるとわかることですが、彼の考えたことが外部へ表現されるとき、その表現方法が周囲に是認されなかったのでしょう。
単純に考えても、精神医療が現在よりも発達していなかった以上、誤診もありうるでしょうし・・・。今のほうが、もうすこしだけ、「ちょっと変だけど狂ってはいない」という領域を広く認めるということはできるかもしれない。でも、現在だっていくつ誤診があるか怪しい部分もありますよね?
そう考えると今も昔も、実は大部分において大差ないのかもしれません。偏見と常識の隣接領域への無関心が維持されたままなのかもしれません。
どちらが狂っているか、どちらが不幸なのか、その判断はおまかせします。二分法自体妥当な方法なのかも怪しいですけど。
狂うくらい独自の観点を持っていないとアートは成立しないのか。では現存するアートはどこからどこまでが正常で異常か。それが分けれるとして今度は、常識人として振り分けられたアーティストは紛い物なのか。
などなどの形で置き換えて自問自答してみてもいいかもしれないですね。文体と同じで、質問の設定の仕方も、それに対する答えも、一つでないことは確かですから。
さっき述べたように自分の世界観を通して世界を再解釈するわけですから、もし個体として自己完結的であろうとするならそうであるほど、常識からは逸脱していくわけです。
『この地点』で常識(社会にオープンであること)をもってバランサーとするのが法律家やジャーナリストなどであるのに対し、行き着くところまで行こうとするのが作家や詩人や画家であるということもできます。
もっとも、社会性の有無ということで分類するとまたわからなくもなるのですが。ルノワールらは印象派という形で『グループ』を作ったわけですから人と上手くやっていくことができたわけです。では彼らはまがい物か?それは違いますね。自己完結後、社会に対して、自分の価値観を維持しつつオープンであることができる高次元の表現者もいるということなのかもしれません。それができないゴッホのようなタイプであっても、作品がすばらしければそれはそれで名を残すことは可能のようです。
それにしても、もし「常識には捕らわれたくない」という人がいて、しかも偶然、絵が上手くかけて(音楽の才能があって、でも何でもよい)世界を表現することができたなら、それはまだいいほうだ、ということかもしれません。というのも、一度バランサーを捨てた後以降、再解釈の具体化に成功できないと、どこかに『収容される』のかもしれないからです。
そうなると、価値観というものの趨勢を握っているけど鈍感である、価値観が固定化していると言う意味で、多数派ってすごい横暴なんじゃないのとか、ストレスと芸術(芸術の変わりに野心的な学問や研究でもいいのですが)を達成することによるカタルシスの関係性とか、頭の中で調整しなくてはいけないことが芋づる式に出てきてしまうのでこの辺にします。答えなど出ていないものでこれ以上書くのも僭越だと言うのもありますので・・・。
おそらく答えについては、百人百様であることなのでしょうが。
LD児の国語科スクリーニングテスト作成とLD児の指導法の試み
質問に対しては狭義な回答ですみませんが、
「テスト作成の視点と評価の基準」からLD児の文体特徴がわかります。
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS...
自殺直前日記: 紀伊國屋書店BookWeb
御希望通りの回答ができなくて申し訳ありません。
自殺した漫画家、山田花子の日記には読みづらいほどの読点の多さは見られないのですが、箇条書きや「」で括った言葉が目立ちます。
「遺書」や自殺者の日記を入手し、精読すれば共通する点が見つかるかもしれないと思います。
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi
和書 > 詳細検索 > 検索結果: 紀伊國屋書店BookWeb
あまり良い回答が得られませんでしたが、質問を終了します。
ありがとうございます。
ただ悪文という意味ではなく、読点を多く打つ人と精神異常との因果関係があるかどうか、が知りたいのです。