樹液を吸うアリがひとつの木に群がり、その木を枯らしてしまうまで栄養を奪い、果てはアリ自身も朽ちてゆくならば自然なことですよね。
人類にはなまじ知恵があるが故に難しく考えたり、保身するだけで…。
温暖化だって地球や宇宙の長い歴史のなかでは自然なサイクルなのかもしれないし。
「自然」ってなんなんでしょうね。
確かに、アリの例のように度を過ぎた搾取の果てに滅びるのは自然な流れだと思います。
自然とはなにか?については僕も、人の立ち居振る舞いすべてを含んだものだと思います。人間も自然物由来ですからね。
ただ、アリと違うのは、蝕む行為が必ずしも「栄養を奪う」だけにとどまらないことではないかと。もちろん先の危険を予測するってことも大きな違いですが。
アリの行為は、人間に置き換えれば「乱獲によって野生動物が滅び、度重なる農耕で土地が枯れ、食べ物がなくなった」ということではないでしょうか。
その程度であれば人間は簡単に回避できますし、地球も痛手を受けないでしょう。
問題なのは、「栄養を奪う」以外のこと。環境汚染ですね。
その汚染が人間自身、ないし地球の処理能力を上回ってしまったのが大変なことなんだと思います。
確かに人間は自然から生まれ、いくら化学物質と言っても自然に由来する物から人間が作り上げたものでしょう。
ですから、上にも書いたとおり汚染物質も自然の範疇だと考えていいと思います。
ただ、自然の範疇ならいいのかって言ったらそれは違うんじゃないかと。
ガンみたいに、母体から生まれて母体を蝕むのは許容されないんじゃないかなと思います。
人間が自分の体のガンなんかで死にたくないと思うように、地球にとってみれば自分から誕生した人間や物質に滅ぼされるのはご免でしょう。(そう考えると地球にとって人間はガンですね。摘出されてもおかしくない^^;)
温暖化も地球の歴史などからみたら自然なことかも知れませんけど、それを自分たちで引き起こして自分たちのクビをしめるなんてことになったらご免でしょうし。
問題なのは自然とはなにか?でなく、自然なことなら何でもありか?っていうことなんじゃないでしょうか。
まぁ、「何でもありじゃねーよ」と意義を申し立てるのはやはり保身のためなんですけどね。
あるいは保身でなく、弱者を守ろうという人たちの善意。(偽善?なんて言ったら怒られますね)
なんだか書きたい放題書いてしまったので質問の趣旨からずれていたらごめんなさい。
Yahoo! JAPAN
アリのお話が出ていますが、視点を変えてこういう解釈はどうでしょう?
アリの中にも、尽きそうな資源に気づいて警笛を鳴らしている者がいるかもしれない。
けれど、その他多くのアリは、そんなことに興味がないか、気づいているけれど何もしない(何もできない)。。
なのでアリの集合体全体をみると、アリは何も考えず自壊の道を歩んでいるようにみえる。
つまり、アリの自壊をマクロ的視野で語り、人類の知恵を個々人のミクロ的視野で語ると正しい比較ができず、本来は同じものではないかと。
自然=因果律ですかね。
地球環境パートナーシッププラザ(GEIC)
URLは関連ありますがダミーです。
ヒト以外の生物による地球環境の変化はごくごく小さなものだったのだと思います。地球そのものの環境変化の方が大きかったのだと思います。
例えばアリが木を食べ尽くすよりも、エルニーニョ現象や火山活動などの方が影響が大きいですよね。
「自然」っていうのは、地球自身の活動範囲内で起こりうる変化を含めた地球環境のことなのではないでしょうか。
例えば核爆発は地球自身の活動範囲を超えているわけですし、一方向への気温変化(温暖化)も然りです。ずーっと長い目で見たら自然なサイクルかもしれません。けれどそれが地球自身の環境変化によって揺り戻されるという保証はどこにもありません。
人体にも良性腫瘍と悪性腫瘍があります。良性の腫瘍というのは進行性がないもの、悪性の腫瘍は進行性があるものを指します。良性腫瘍が、体力の低下により悪性腫瘍になることは十分にあるのです。
今起きている環境の変化が悪性腫瘍(進行性の疾患)にならないように、僕たちは配慮する必要がある。僕は少なくともそう考えています。
http://www.iic.tuis.ac.jp/edoc/original/harakei/daikikou.html
初めて酸素をつくった生物〜地球だけが持つ酸素の神秘〜
えと、ポイント要らないので一言だけ言わせてもらえるとうれしいです。
生物進化の過程において、地球の環境を大きく変化させたというのは何も人類だけではありません。例えば、上記の酸素産生生物の登場はそれまで存在していた嫌気性生物(メタン/硫黄系などのエネルギーを利用する生物)を絶滅の淵まで追い詰めましたし、殻を持ったプランクトン等の登場はカルシウムの局在化(石灰岩)を生じさせました。植物は陸上に上がってこのかた、土というものを岩盤の上に堆積させましたし、その存在は地球気候にも影響を与えています。ですから、rockinchairさんの仰っているのは非常に的を射た発言だと思います。
皆さんも指摘しておられる自然の概念の西洋と東洋の違いですが、まぁ、それはあって仕方ないものだろうな、と思っています。
例えば、我が国はここしばらくはひどい災害も多いですが、私の住む福井も先日水つきましたが、自然は西洋(ヨーロッパ)やイスラム世界のように過酷では無く、戦う相手とはなりません。確かに災禍もあるけれども享受するものの方が大きいのが我々の自然。自然というとやっぱりあるがままという事なんでしょうが、西洋やイスラムは変えるべきなのが自然、なのでしょう。
ちょっと自然という言葉の意味に翻弄されかけてますが、自然というのはやっぱり、あるがままのそれそのものという気がします。山が自然、川が自然。護岸工事でアスファルトに固められたのは人工物ですが、草が生え、鴨が遊ぶのは自然という気がします。
……ただ、その自然に見える川は江戸時代頃に水田に水を引く為に作られた用水だったりします。山を見上げても、杉の木ばかりでそれは自然の山ではない訳で。
結局は、日本の自然も人の手が入った自然だと思うのです。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4478860467/249-8675259-...
Amazon.co.jp: アフターマン 人類滅亡後の地球を支配する動物世界: 本: ドゥーガル・ディクソン,今泉 吉典
つまるところ、我々が今言う自然というのは、人間に都合のいい環境、それは便利だ不便だという意味ではなくて人間が作り出した、人間が住みうる環境ではないかと思うのです。地球を大事にとよく言われますが、別に環境が悪化して滅びるのは現在の環境に適応していた生物だけで、人類がその多くの生き物を巻き添えにしつつ絶滅した所で何らかの生き物達が再度反映している事でしょう。
http://www.isas.jaxa.jp/ISASnews/No.270/interview.html
宇宙・夢・人 2003.9 No.270
生物の進化の方向が、生物の生存圏を広げる方向に進んでいるのだとすれば、結果次に進出する場所は宇宙圏でありましょう。
だとすれば、その環境は我々炭素系生命体にとってあまりにも過酷なものとなり、その空間を占めるのは人工生命体としてのロボットという事になるのかもしれません。だとすると、人間はロボットを作り出すために生まれてきた生命体という事がいえるのかも知れませんね。その前に滅びそうではありますが。
http://www.asahi-net.or.jp/~ns3s-mrym/
地球・生命・実験室・生命システム論
もっとも、CELLS技術を使えば人間も宇宙には住めそうですが……。
そういう意味で自然はやっぱり凄いもんだと思います。
えと、ここで言う自然というのは『生物圏』という意味で。地球を母体とした生物系という意味で捉えていただければ幸いです。
ややもSF的になりましたが、何かご参考になれば。再度申します。ポイントは要りませんので。
http://www.hatena.ne.jp/1097399285#####
今地球は温暖化だとか人口爆発だとか環境破壊だとか言われていますが、地球の歴史に自然発生した生命である「ヒト」が地球を汚染することはある意味自然現象だと思うのです.. - 人力検索はてな
質問者様の意見にほぼ賛成です。
もうかなりの数の意見が出されていて、ある程度かぶる部分もあると思いますが、一言。
所詮人間も自然の一部だと思います。例えば地球上のみ(宇宙全体に比較して)という限定した「環境」の中であっても、過去の色々な生物がそうであったように栄枯盛衰があると思います。人間という生物も行き着くところまで行けば滅びゆく種の1つに思えてなりません。果たしてそれが過去に起きたとされる小惑星の衝突であったり、氷河期であったり、地球環境そのものの変化であるのか知る由もありませんが。人間という生物には野生の動物のように「天敵」というものはいませんが、一時期話題になったエボラウィルスのように人間の手に負えないウィルスが、いつ何時感染力を強め、まるで天敵のように振舞うかもわかりません。
人間が決定的に他の動物と違うのは、確かに「文明」であったり「知性・理性」であるのかもしれませんが、私が思うのはその結果として人間という生物が持ってしまった「驕り」ではないかということです。その驕りにより人は地球上のものすべてが自分たちの所有物であるかのように振舞いますが、いつかその驕りにより「自然」という大きな力に飲み込まれていくような、しっぺ返しを食うような気がします。
はたしてそれが何万年、何億年先のことかはわかりませんが…
自然:
1)人の手を加えない、物のありのままの状態。
2)この世のあらゆるものの総称。
イ)人間の社会から離れた立場で考えた(ありのままの)天地万物。
ロ)人間を含めて因果的必然の世界。物体界。
自然界: 自然の世界
イ)天地万物が存在する範囲。
ロ)人間以外の、人間を取り巻く世界。
ハ)人間界・生物界以外の世界。 岩波 国語辞典より
ここも参考になりますでしょうか。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4198612668/
Amazon.co.jp: 教養: 本: 小松 左京,鹿野 司,高千穂 遙
日本の代表的SF作家の小松左京さんは、琵琶湖の水質汚染についてのTV番組を見ながら、「放っときゃいい。」とつぶやいたそうです。
そばにいた人が、「ええっ?」と聞き返すと、
「2億年もすれば、もとに戻る」と言ったそうな。
出典は失念しましたが、「人間が守りたい自然は、人間にとって都合のいい自然でしかない。」というのはよく言われることですね。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4163650806/250-2354919-...
Amazon.co.jp: 環境危機をあおってはいけない 地球環境のホントの実態: 本: ビョルン・ロンボルグ,山形 浩生
URLは最近読んで面白かった本。
視点をどこに置くかではないでしょうか。
時間を長期的に(それこそ何億年の単位で)考えれば、たしかに人類はサイクルの一部にすぎないかもしれません。しかし、時間を短期的に(私達の孫の世代まで)考えれば、自然に与える人類の影響はサイクルに組み込まれません。私の雑感としては、人間はどうせ100年くらいしか生きられないのだし、身近の環境に短い時間で付き合えばいいのだと思います。だから自然を守るっていうのは裏山を孫の代まで守っていくってことだと思いますよ。
「自然」ってのは手に届く範囲の愛しい空間のことでしょう。
http://www7.plala.or.jp/harehore/bunmeiron.html
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この地球上において、人類も「自然」の一部と考えるか否か。
人間のすることも含めて「自然」とするなら、今問題となっている外来生物に関しても、メディアの伝える内容が偏った意見としか思えない。
「東京都の木」に指定されているイチョウも中国原産の外来種であり、われわれ日本人の主食となっている「米」も大陸からやってきたもの。人間にとっての利益だけが優先されるべきという考え方は、本来の意味での「生態系」とはかけ離れたものでは?
自然の力はこんなところです。
地球温暖化の仕組みです。
枯れた木のほかの植物が生長することかもしれません。
結局こういうことでは(無情でなく無常)。
いつまでも変わらずにいてほしい、と思うところに人間の苦悩が始まるように思います。
ありがとうございます。
地球や宇宙になにがおころうとも、自然なことだと思います。
おっしゃるようにアリと変わりません。
環境破壊が木1本だろうが、1兆だろうが、同じだと思います。
アリと違うのは、「このままではヤバそうだ」ということを知っていることだと思います。
でもアリは、何も考えずに朽ち果て、たまたま特異体質をもって生き残ったアリは、次の世代にDNAを受け継ぎます。
地球が完全にアリのすめない環境になったら、アリではない別の生き残りが、繁栄するでしょう。
人間は、環境破壊して他の生物に迷惑をかけているので、また人類の繁栄のためにも、環境保全する責任はありますが、長い目で見ればどんな行動をしても自然な行動で、地球や宇宙にとっての日常です。視点によって違いますね。
ありがとうございます。
>アリと違うのは、「このままではヤバそうだ」ということを知っていること
なるほど。たまたま生き残ったアリではなく生き残る術を模索するヒト。でも危険にさらされることで進化してきた生命は、保身を考えるようになっては先は見えた感アリ?
>人間は、環境破壊して他の生物に迷惑をかけている
でも例に出したアリの場合でも、木が枯れることでそれを利用していた他の動植物たちには影響がありますよね?まぁその影響をそれこそ「自然」に補完できる状況を逸してしまってはダメということか…。
まあ正直なところ、いま人類が守ろうとしているものって地球ではなくて環境、しかも「人間が住める環境」なんですよね。
人類を含む、いま地球に生息している生き物が生息できないような環境が地球上に広がったとしても、
それでも「自然」そのものは続いていくと思います。
人間が自然を超越した、というような言い方をよく見ますが、自然というものは人間の進化すら含んだものなのではないか、と思います。
だいたい、環境汚染自体かつての地球でも起き、それによって多くの生物が死滅してしまったこともあります。
有名なのは光合成を行う生物が初めて現れた時。それまで存在していた生物にとっては光合成によって作り出される酸素は猛毒だったのです。
なんか今の人間のやっていることにすごくそっくりですね。
でも、それをきっかけに、今の酸化型大気で生きる生物が繁栄したのですから、人間によって汚染され尽くした地球でも、
長い年月が経てば新たな生物が繁栄することと思います。
ちょっと話題がずれましたが、「自然」がなになのか、と聞かれて簡潔に答えるのならば、
「人間の所業も含めたありとあらゆる現象」
ではないかと。
コンピュータのプログラムが如何に進化を遂げようと、決してコンピュータそのものの支配から逃れられないように、
人間が如何に進化を遂げ、何を行おうと、結局は自然からは逃れることなど出来ないと思います。
ありがとうございます。
かなり共感できるご意見です。
今までの地球で大きな変化に対応できなかった生命は淘汰され、新しい環境に適した生命が繁栄するのが常ですよね。
そういう意味でも「ヒト」は自然が生み出した生命とはいえ「熟れ過ぎた」ような感じを受けるのです。
知恵とは諸刃の剣か…
「Reconnaissance-Level Inventory of the Amount of Wilderness in the World」
においては、基本的な自然の定義を「主として人間以外により形成されている」
ことに置いています。
つまり、人間の活動が地球に及ぼす影響の評価を客観的に行う手法として、
人間の影響力が濃厚な地域と、全く人間の手の入っていない地域とを比較する、
というわけです。
その二つの対極的なサンプル群を、それぞれ
・自然
・人工
といった言い方で表すと考えればわかりやすいと思います。
もちろん「自然」=「地球環境」と考える場合は、
人間も、人工飼育のペットも、鉢植えのサボテンも遺伝子組み替え大豆も、
何でも含めて全てが地球環境の一環ですから、
着眼点によって「自然」の語の持つ意味は変わってくるものと言えます。
後者の意味で「自然を守ろう」という場合、
人間にとって役立つ自然を保全していこう、
という考えと、
あるがままの地球を人間の手で壊すのはやめようという考えに、
これまた分れてきそうです。
ありがとうございます。
環境になにかしら影響を与えることについて善悪の判断をするのでれば、おのずと結果は見えそうですね。
http://www9.big.or.jp/~pon-sama/BUNGAKU/NIETCHE/2.html
ニーチェ - ツァラトゥストラとキリスト教について
自然というか、物理法則に則って生まれ出たモノの中で、今のところ「ヒト」だけが自分のたち振る舞いがどうやって自分に戻ってくるのか想像できる存在になったと言うことでしょうね。
このまま人口爆発や核戦争などで、絶滅したのなら、ただのケモノとしての存在から脱しきれなかったと言うことでしょう。(^^)
では、お役に立てるとうれしいです。
ありがとうございます。
なるほど、一理ありますね。
日本酒|大七酒造株式会社
まず、「自然nature」なのか「自然なnatural」なのか。
そして、「自然」に価値があると思うかないと思うか?
そこから整理する必要があるでしょうね。
とりあえず私は、爪も牙も持たず、身を覆う毛皮さえ持たない人間が「自然は素晴らしい」と無条件で考えるなんて、ずいぶんおこがましい話だと思います。どちらかと言えば「人工は素晴らしい」と言うべきでしょう。
その上で私見を述べますが、要は「人工」と「自然」が調和していれば問題がないのでしょう。
両者が決定的に対立しなくてはならない理由が本当にあるのでしょうか?それは普遍的な真理なのでしょうか。
この地球上で、両者があたかも対立するような状況が生まれはじめているのは事実だと思いますが、その対立自体を解消する努力を我々がどれほどしてきたかというと疑問です。
「自然と調和しうる人工」と「自然と調和しない人工」
ならば、コストがかかっても前者を選択する。そういう仕組みを作り上げる必要があるのではないでしょうか。
urlはダミーですが、「自然のままの手造り」という表現が面白かったので載せました。
ありがとうございます。
みなさんの回答はとても参考になりますね〜。
そもそも「人工」というくくりを定義するから「自然」との隔たりがうまれるんですよね。
私は自然(この場合は宇宙規模で考えた環境)が生み出した人間が産みだすものは、イコール自然なわけで、それによってもし地球が破壊されることになったとしてもそれが自然の仕組みなのかな?と思うわけです。
ふと思い出しましたが、こないだ鉄腕ダッシュでトキオがメロンを育てていたんですが、そのメロンの葉にはアブラムシが大量に発生して養分を吸い取っていました。そして大量発生したアブラムシの排泄するフンによって葉は枯れ落ちてしまったのです。
この場合、知恵をもったアブラムシ=ヒトのような図式が(かなり極端ですが)成り立つように思います。
葉も枯らさず、且つ自身も生きていけるように工夫する=人工と自然の調和、となるのでしょうかね。
http://homepage2.nifty.com/kazuoyoshino/ron11.htm
自然と自然科学についてメモ
自然とはなにか。私の考えでは、どのような状態も自然といえます。
リンクの「反映としての認識」以降が参考になるのではないかと思います。
ありがとうございます。
私も同じようなことを感じておりますので共感しました。「環境保護」「自然保護」ということばを考えてみると「人間は自然を支配しコントロールしうる生き物である」という前提のもとに使われますが、それがそもそも腑に落ちないんです。とりあえず欲望のままに突き進んだ結果、生態系のバランスを変えてしまった、けれどもそのままでは自分達はそのうち滅んでしまうということに気付いて慌ててもとに戻そうとしている。そういった人類の一連の営みは「自然」というものに内包されている一要素でしかないわけですよね。ホントにアリと一緒だと思います。
今の自然は人間にとって生き難い方へ生き難い方へと進んでいますし、人間はそれを挽回することはできずに滅びると私は思っています。
そして、紫外線がさんさんと降り注ぎ、二酸化炭素で満たされた地球上では、いずれその環境を住みよしとする新たな生物が発生し、繁栄を迎えるのではないでしょうか。(学問的な根拠はありません。聞きかじりで適当に言ってるだけです)
http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_detail.cgi/4143038642c550...
オンライン書店ビーケーワン:風の谷のナウシカ 全7巻(分売不可) アニメージュ・コミックス・ワイド判
蛇足ですが「風の谷のナウシカ」の原作版は読まれたことがおありでしょうか。「環境を壊すな」「自然を大事に」といったスローガンを声高に叫ぶだけの作品ではありません。人間を含め、種々の生物が自然の中で生きていくとはどのようなことなのか、非常に深く考えさせられるものがあります。この手の問題を考えるときには必ず思い出す作品なので、趣旨から外れるかもしれず恐縮ですが紹介させていただきます。
ありがとうございます。
今の自然生態系に適応すべく進化してきた人類にとって、自ら狂わせる結果となってしまった環境に苦しむなんて愚の骨頂だと思います。アリであればたとえ自分達によって自らが生きていけない環境を作ってしまっても、ただ滅んでいく(それこそ前述の突然変異なども含めて)だけです。ですが、アリは食物連鎖ヒエラルキーでも底辺付近にいる生物で、たとえ一種のアリが滅んだとしても他のアリや昆虫がその立場を補うようにできています。でも人間は?
人間が人間でい続けることを一番に望み、他の生物を支配することに心血を注ぎ、生かされている自然や宇宙さえも作り変えようとしています。
映画「ジュラシックパーク」に「自然をレイプする行為だ」というセリフがありますが、まさにそんな感じです。
>「風の谷のナウシカ」の原作版
かなり読んでみたいです!さっそく本屋に出向きます…。
自然界の摂理
自然界には一定の規則があり、異常発生や異常現象が発生しないように、食物連鎖の面も含めて、調和が取れているのです。
人間以外の生物は、外的により成長段階で志望する生命を見込んで、子作りをしているのです。
人間の場合は医学の進歩により、また、科学の進歩により自然界の摂理とは乖離した状態を生み出しているのです。
これは自然ではなく、人工なのです。サルは火を起こすことをしていたのですが、火から生じる二酸化炭素を吸収するに十分な森林があったのです。
現在人間は自然の摂理で解決していたものが解決しない行為を行い、自然の摂理を乱し、地球温暖化・人口爆発を強いてしまったのです。
これは自然ではないのです。
ありがとうございます。
ではなぜ人間はここまで進化したのでしょうか。
ヒトの進化は自然に反する事柄だったのでしょうか。
Yahoo! JAPAN
知能が発達した人間が、環境などを破壊しながら成長・発達してきた結果、そのことが自分達の首をしめかねないことを悟り、それに対処しようとすることは、「自然」なことだと思います。
昔に恐竜が絶滅したのは、急激な環境に対応する能力がなかったからであり(絶滅論にはいくつかありますが、ここでは触れる必要がないと思いますので省かさせていただきます。)やはり「自然」なこと。
人間が「自然」の流れに逆らうから、その結果自分達を環境問題などで死に追いやるとも聞きますが、それも、人間がそこまで知能が発達した生物であるがゆえの出来事であり、「自然」なことではないでしょうか。
「自然」とはある意味、これから起こるすべてのことなのかもしれないかなと思います。
ありがとうございます。
なんだかコメントを沢山読むにしたがって、ヒトが生まれたのは何かの手違いだったように思えてきました。
恐竜の話しが出ましたが、彼らはヒトの何倍も栄えた生命です。もし隕石などの衝突での急激な環境の変化に耐えられなかったとすれば、それがなかったらもっと栄えていたのかもしれません。少なくとも今のヒトよりは長い間地球を闊歩していたのですし。
与えられた環境に適応しつつ繁栄していったのですから、身の丈にあった生活をしてたんでしょうねえ。
Yahoo!
私も同じく、環境を保護しなければならないのは「人間が快適に地球に住めなくなるなら」、それだけのことだと思います。このまま暴走し続ければrockinchairさんの言うとおり、人間は知恵ゆえに栄え、知恵ゆえに滅びるのでしょう。
自然とはなにか、「生きるために利用するためのもの」。つまらない人間ですいません。
ここからはどうでもいいですが、個人的意見ではなく集合意識で自然を捉えるなら、やはり宗教を理解する必要があります。
ありがとうございます。
>集合意識で自然を捉えるなら、やはり宗教を理解する必要
ヒトが宗教観を持つまでに進化したこともなかなか興味深いひとつの現象ではあるんですが、「自然」を語る上ではいまいち受け入れづらいのです。
>自然とはなにか、「生きるために利用するためのもの」
なるほど。でも生きるってなんでしょうかね。
あんまり突き詰めると宇宙の始まりとか端っことかそういう話しになっちゃいますけど...
http://www.nhk.or.jp/daishinka/
NHKオンライン
この放送の説では生物が何度も大絶滅を繰り返し
そのたびに復活している様子を描いていますが、
これを見てたら例え、核で地表が焼き尽くされても
大丈夫なような気がしてきました。
ので現在の環境維持は人間が生きていく上で必要なだけなので、
仮に環境汚染で人間が住めないような環境になっても、
適応した生物が生きていくんじゃないかと思ってたりします。
ありがとうございます。
定期的に生命をリセットする、みたいな感じですね。
デブラグしてスッキリ、というか。
EXPO 2005 AICHI,JAPAN
確かに自然の流れとして、人間は今このようなことをやっているんでしょう。
しかし、破壊の限度をこえてしまったのかなぁという感じです。環境破壊をしてこそ、生き物は生きているんですけど。
人間は欲が大きすぎるのではと思います。その”行き過ぎ”で今のような状況に・・・
ありがとうございます。
やはりヒトは熟れ過ぎているんでしょうかね。
人類をひとつの生命体と考えたとき、ヒトひとりひとりは人類を形成する細胞です。ひとつひとつの細胞の寿命が短く代謝がいい=種として若い、寿命が長く代謝が悪い=種として老いている、とも捕らえることができます。
ヒトの寿命が長くなれば長くなるほど世代交替は鈍くなり、人類は老いていくような気がします。
rockinchairさんの意見には共感できます。
確かにアリがしている自然破壊も、ヒトのそれと規模が違うだけで、内容は同じことですよね。
でも、アリは自らの行動がやがて自らを滅ぼすことになることがわからず、ヒトはたまたま高い知能を持ったことによってそれに気づき、慌てふためいているだけなのでしょうね…
本来ヒトには他の動物同様の知能しかなかったのに、一定の領域を踏み越えてからは、生活の快適化のために他のものを蝕みはじめた頃から自然との拮抗が崩れ、その報いがこの現状でしょう…
我ながらヒトのしてきたことには愛想が尽きます…
ありがとうございます。
>一定の領域を踏み越えてからは...
命は命を摂取することで命を維持することができます。ですが、命を支配しているのは人間だけなのです。これが踏み越えてしまった一線でしょうかね。
http://d.hatena.ne.jp/hira333/20041008
地球温暖化と海流 - hira333の日記
あなたのおっしゃる通りですね。
自然は人間のためにあるのではありません。
人間を万物の霊長とする西洋思想が現代人の世界観を歪めてしまったのでしよう。
その意味で現代文明は、その出発点からして誤っていたと反省すべきでしょう。
人間とは、自然に従属するゴキブリと同格の生き物にすぎません。
例え人類が地球を破壊しようとも、宇宙的視野から見れば、別にどうということはありません。些細なことです。
大切なことは、宇宙の摂理を個々人が心の中に育むことでしようね。
ありがとうございます。
そうなんですよね、同じ生かされている存在なのにどうして自分達だけが地球の正義みたいな立場でいられるんでしょう。保身のためではあるんでしょうけど、本当に切羽詰らないと問題を直視しないヒトは、まるで夏休みの宿題を全然やっていない8月末の小学生のようですね
Yahoo!
自然の定義にもよると思いますけど、
少なくとも、地球の害虫みたいな考え方は違うと思います。
そして、人間だって滅ばないと思います。
脊椎動物で、こんなに世界中に分布してる動物はいません。
それが、少々分布が限られるようになってきたところで、
(60億が1億くらいになったとしても)
それは絶滅なんていわないし、ただ、今までが多すぎただけで、今度は少なくなったというだけだと思います。
環境破壊とか温暖化とか言われてますが、絶滅することは無いと思います。
(結局、核戦争をしたところで、生き残る人は1億人はいると思う)
そして、ヒトという種もやっぱり何万年と続くんじゃないんでしょうか?
何か一つの新しい種が繁栄すると、他の種にとっては不都合だということは良くあることだと思います。
(上の人も挙げてるように、シダ類の繁栄による大気への酸素(当時にすれば有毒ガス)の放出みたいに)
彼らシダ類も自分たちで有利なように環境を変えていったわけで、
僕ら人間もそうすればいいと思います。
環境保護とはまさに、人間に有利な環境の保護だと思いますが、
(例えば、温暖化して、海が増えれば、きっと生物全体としては利益になる方が高いと思う)
何ら恥ずべき必要はなく、積極的に自分たちに有利な環境を保全していけばいいんじゃないんでしょうか?
それどころか、
一部の植物などでは、トランスポゾンなどの動く遺伝子があってそれも進化の一因になってたりするんですが、
せっかくなんだから、バイオテクノロジーでも使って、人間自身を環境に適応させてもいいと思います。
例えば、紫外線が増えるなら、紫外線によるDNA損傷を修復する酵素の活性や量を増すようにするとか。
人間が他の動物に比べて、環境を変える速度が速いというのなら、
(実際は、恐竜やシダ類がどのくらいの速度で変えたのかを知らないんですが)
自分自身もそれ以上のスピードで変えていけばいいと思います。
結局は、何を起こしても、
地球を物理的に吹っ飛ばしたり、地球の表土全体100%を焦土と化さない限りは、
何かの生物には有利な環境になっていくわけだし、何をしても(本当の)自然だと思います。
その上で、人間は人間のために、いわゆる”自然”を守り、いざとなれば自分自身も改変していく必要があると思います。
ありがとうございます。
なかなか興味深いです。
ヒトの進化が地球を追い越してしまったみたいです。
http://www.japandesign.ne.jp/KUWASAWAJYUKU/KOUZA/5/ART-NATURE/TA...
JDN/桑沢/99-5期/地球環境「人工と自然」6/竹村 真一
「どうせいつかは死ぬんだから生まれてくる意味はない」「命ってなんなのでしょうね」
と、考えてみたところで答えは出ませんよね。
人間という種またはその進化形が地球上にできるだけ長く存在したいと「望む」ならば、人間も「自然」の一部であると考えないほうがよいと考える人と、人間が何をしようがそれも「自然」であってそれで滅びても構わないと考える人があり、「自然」とは何かという問いが生まれるのではないでしょうか。
この場合の「自然」は前者にとってのみ意味があるものだと思います。私は前者です。
URLのページのような考えは、人口増加すら抑えることのできない愚かな存在が人間であるということを忘れた馬鹿げた幻想だと思います。
ありがとうございます。
前述したように、命は命によって生かされているわけですが、その仕組みを維持するのが食物連鎖ヒエラルキーですよね。ヒトがその頂点でないとすれば、ヒトは何によって命を脅かされるのか。それは「自然」です。「自然」は植物をはぐくみ、昆虫や小動物はそれを糧とし...という具合に命は培われ、ヒトは自然の摂理によって消滅する。この大いなる営みの一部であるヒトは、もうそれに縛られない(縛られたくない)超越した存在なのでしょうか。
人間の進化の過程について記載されています。私の考えとは多少違うのですが。
この記載の中では、人間が進化を遂げる過程において、他の動物たちを排出してきたとしています。即ち、人間の進化は自然との調和なしに遂げられたというものです。確かに自然と調和をしていない面もありますが、全ての面で調和が図れてはいないというわけではないでしょう。
自然と調和が取れなかった面において、歪が生じ人口爆発当の問題が発生していると考えるのが、一般的ではないでしょうか。
ありがとうございます。
やはり私のなかのこのモヤモヤは
「自然と調和できなくなったヒト」という結論に達しそうですねぇ
http://d.hatena.ne.jp/t_shimada/
Transistion State
わたし、「自然」と言う言葉って曖昧だと思います。(だって、自然1個ちょうだい、っていえないでしょ。)。また、日本で言う「自然」は東洋史観に左右されるし、英語で言う「nature」は西洋史観独特の概念があると思います。
おそらく、この話題に一番しっくりくる、私なりの言い換えの言葉を用いると、それは「秩序」とか「摂理」がぴったしではないでしょうか。
人間がやりたいことをやるのも宇宙の摂理のなかの一つだとおもいます。人間の場合、それを「法」によって制限しているだけ。その「法」も無秩序を秩序化する、人工的な秩序/摂理。人間の意思も「人工的な秩序化」をもたらすひとつ。
考えてみれば、物質を集めて生物という形にすることって、エントロピー(乱雑さ)を小さくしているので、それを秩序化するのは相当のエネルギーが必要なんですよね。どうしてそうなるかは分かりませんが。
ありがとうございます。
うーん、なるほどって感じですね。
なんか自我に目覚めたロボット、みたいな。。。
自然と、それに対じするものとしてヒトを捕らえた時、ヒトは、自然に取って迷惑な存在なのかもしれない。
ヒトが生活する事で、自然を破壊して行っているのは間違い無いですから。
ただ、幸か不幸かヒトは、考えてしまうんですよ。このままで良いのか。他のヒトは、それより経済さ、と。
はっきり危ういから、保護をと考える事もひつようだし、何億年か先なのかも知れませんが、ヒトが滅ぶ事も有るのかもしれない。
そんな風に、遠いか近いかわからない未来を考えることができるというヒトであることは、この自然界が始まって以来はじめての出来事なのかなぁ。
自分たちが生きていることで、自然を脅かしている事を自覚して、憂いているだけじゃなく再生・保護などを考えうるのもヒトだからなんじゃないのかなぁ。
たぶん、ヒト以上に自然・宇宙は、タフなんですよ。地球の上でしか生きられないヒトは、自分の保身を考えるけれど、それをも受け入れてくれるのが自然なのと違いますか?
せめて、出きる事から地球に優しくしようっと。
そして、地球とか、宇宙を、考え感じていたい。
ありがとうございます。
>せめて、出きる事から地球に優しくしようっと。
>そして、地球とか、宇宙を、考え感じていたい。
あなたのような考えの方がもっと増えればステキな世の中になりそうです。
自然愛好系地球温暖化対策だ
ヒトと蟻の違いは、ヒトは食物の採れない季節にも冬眠できないし、着物が必要だし家も必要で、しかも他の動物が自分の住めるところを選んで住むのと違ってヒトはどこでも住めるように工夫して住むという点ではないでしょうか。
他の生物が食物をあさるのと同じようにヒトは衣食住全部をあさらなければいけません。
太古、日本がとよ葦原の国だったときには葦をなぎ倒し、燃やし、そこに道を作り家を作り田畑を作ってやっとの思いで生きていたのが、今は電気や水道や飛行機や色んなものがあってそれでもまだ不安があるので何とかしないと将来が心配なわけで、それがヒトの自然の姿といえるでしょう。考えてみるととんでもなく妙な生物です。地球温暖化の問題も解決してさらなる問題が生じ、どうなるのでしょうね、この話。
ありがとうございます。
知恵ゆえの不安ですよね、それって。不安を持つことのない生命は自分の命をまっとうすることしかないのですし。
違う視点からしてみれば、ある意味一番地球に適しているのはヒトかもしれません。
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そのとおりだと思います。
宗教的なのはやめてくれといわれましたがこういうのを考えると少しは入ってしまいます。
地球も宇宙も生物も、もしかしたら「神」という謎の存在に作られているかもしれません。
もちろん、実態はありません。いわゆる「自然」に等しいものです。
それは、いままでそしてこれからも温かく見守ります。なぜかって?
もし暖かく見守っていなければ日本はアメリカより立場が上かもしれません。
私たちがこうやっていろいろ意見を交わしても、サイクルは変わりません。
理由は簡単、意見を交わすこと自体「サイクル」かもしれませんよ。
ありがとうございます。
宗教の話しはキライではないのですよ。
でもあくまで個人的な意見をこういうテーマで募り、交わすことはとても有意義だと思います。
なのでとても楽しいです
でもポイントがヤバイですね。。。
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R.デカルト(1596-1650)は、自然とは、心的なものを持たぬ単なる物質であり、自然界の一切の変化はこの物質の因果法則にしたがった必然的運動であるとする徹底した物理学的自然観である機械論的自然観を唱えました。あまり心のこもらない論ですが、デカルトは自然に対して、そう結論を出しました。
ありがとうございます。
こういうのもアリです。
ありがとうございます。
以下、宗教色のあるものはご遠慮ください。
あくまで回答者個人の意見を聞きたいのです。