学校の遠足で、あなたのお子さんが牧場へ行ったとします。牛や豚や鶏との「ふれあい体験」の後で、先生が「牛肉や豚肉や鶏肉を食べるということについて、この機会に、あらためてよく考えてください」と話して、遠足のまとめた……と仮定してください。その結果、肉を食べられなくなってしまった子どもも、わずかながらいた、しかもそれがあなたのお子さんだったとしましょう。


親として、あなたは子どもに何を話したい/教えたいと思いますか?

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※ 有料アンケート・ポイント付き質問機能は2023年2月28日に終了しました。

回答30件)

id:YasudaS No.1

回答回数351ベストアンサー獲得回数5

ポイント20pt

ぼんじり&btnG=Google+検索&lr=lang_ja

ぼんじりを食べた後に説明したら、しばらく鳥を食べなくなりました。

食べたくなかったら、食べないでよい..と話をします。

ただし、代替の食餌はだしませんので、ひもじい思いをします。

しばらくしたら、食べる様になります。何も話す必要はないでしょう。

体でわかります。

id:hkt_o

稀に、それっきり肉食をやめる方がいます。それでもいいのか、というあたり、それほど簡単に割り切れない部分があるだろうと思っています。

質問文の訂正「遠足のまとめた→遠足のまとめとした」

2004/11/26 10:11:16
id:mina_san No.2

回答回数12ベストアンサー獲得回数0

ポイント15pt

動物の肉を食べることは、悪い事ではないんだよ、と教えます。

牛や豚や鶏も、何らかの命を食べて生きてる、そして人間もそういう自然の生態系の一員なんだ、と話します。

でも実際は、そういうのってショックだったりするんですよね。

id:hkt_o

なるほど。引き続き回答を募集したいと思います。

2004/11/26 10:19:41
id:So-Shiro No.3

回答回数580ベストアンサー獲得回数0

ポイント60pt

出典を忘れてしまったのですが、梅棹忠夫氏か梅原猛氏のエッセーで、「知り合いの尼さんに、牛肉を食べることが殺生ではないかと悩んでいることを打ち明けると、尼さんが『あなたは、その肉を食べるときにどう思いました』と聞いてきて『大変おいしいと思いました」と答えると、『それでいいんです。食べられる牛として生まれてきたからには、死んで他の動物においしいと思って食べてもらい、その動物を生かす。それが何よりの功徳です』といわれた」という話があります。輪廻思想に基づくと、功徳を積むことによって解脱が早くなるわけですよね。

妙に印象に残っていて、藤子・F・不二夫氏の短編漫画「ミノタウロスの皿」を読んだときにも、ああ、仏教ってそういう思想なんだって感じました。

もともとの仏典にも、虎に贈り物をするのに、いいものが思い浮かばなかった兎が、火の中に自分の身を投じて食べてもらう、という話があったと思います。

「おいしいと思って、君を生かすために死んでくれた牛さんや豚さんや鶏さんに感謝しながら食べるんだよ。そうすれば、みんな次の世で、幸せな暮らしができるんだから」と話します。

id:hkt_o

一定の回答を誘導する質問文なので、一般的な答えが出てきているのだと思いますが……例えば、「食について自分の頭できちんと考え、そして肉食をやめた」ことを肯定的にみる意見などあれば、ぜひ拝見したいところです。主題にとらわれると、回答に多くのパターンは期待できません。現時点で既に10件を超える回答が寄せられていることでもあり、今後は搦め手から攻めるタイプの回答を期待したいところです。

2004/11/26 10:25:32
id:Pygmalion No.4

回答回数195ベストアンサー獲得回数0

ポイント15pt

http://plaza.rakuten.co.jp/lillydakid/diary/200411020000/

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食物連鎖と命の重みに付いて。

食物連鎖の頂点に立つ人間として、

他の生命に感謝の念を持つ事。

id:hkt_o

なるほど。おそらく「他の生命に感謝の念を持ちつつ、肉食を再開する」ことを期待しているのだ、と読みました。

2004/11/26 10:28:22
id:ryohu No.5

回答回数990ベストアンサー獲得回数1

ポイント20pt

http://www.hatena.ne.jp/11

人力検索はてな

ダミーです。

食べ物を大事にしようということだったのでしょうか?

難しいですね。

私の子供だったとしたら、

まず、子供の話をゆっくり聞いて、

どのように感じたのか、子供の心を知りたいと思います。

そのうえで、生きるためには、ほかの命をいただかなくてはいけないということを

子供の目線で、理解できるよう話したいと思います。

なるべく、牛を殺して、とか、食べるとか言う表現は除いて話したいですね。

id:hkt_o

関連するアンケートをいくつか行ったわけなのですが、他の生命の犠牲の上に人の命がある、という話の切欠は、菜園にも釣り場にも牧場にもあります。にもかかわらず、野菜が可哀想だから野菜を食べない、という子はほとんど出てこない。ピチピチはねていた魚を殺してしまっても、平気であることが多い。なのに、牛や豚には情が移る子が結構います。同様に、「牧場の残酷さ」には何とか気付いても、「畑の残酷さ」には誰も気付かない。その辺りの「いい加減さ」について突っ込んだ回答が、ここまで出ていません。

肉食「だけ」やめた子どもに対して、何を話すのか、何を教えたいのか? 私の真意を明かせば、そこに一番、興味のポイントがあります。しかし質問でそのように書かなかったのは、まずは一般的な反応を引き出したかったからです。できれば2回、回答していただいて、2度目には、もう少し突っ込んだご意見をいただけるとありがたいです。

以下、コメントは簡略にします。

2004/11/26 10:37:47
id:yuyue No.6

回答回数14ベストアンサー獲得回数0

ポイント20pt

私自身が、実際そのような体験で、しばらくお肉が、たべられなくなってしまいまして、親を困らせたことがありました。

わが子が、そうなったら、自分の体験を話すと思います。私自身は、そのせいで、相変わらず、牛肉が苦手です。ですから、子供が多少抵抗感をもつことは、仕方ないと思いますし、同じことになる可能性が、あることも予測されますが、仕方ないと割り切れると思います。でも、できたら好き嫌いは、なるべくないほうがいいと思いますので、そういう風に促します。

id:hkt_o

好き嫌いはない方がよい……というのは、動物の命よりも「人間の健康」を優先する考え方です。その良し悪しは問題ではなく、結局、肉食を容認するからには、何かを動物の命よりも上位の価値観として示す必要がある。逆にいって、決定的な反論はありえないだろうと思います。

例えば極端なことをいえば、食物連鎖のありように依拠した説明は、「そんなことまでしてボクは生きたくない」という反論には勝てないはずです。何を大事にするか、という話でしかないわけだから。

いずれにしても、生死の話題が、「好き嫌いはない方がよい」というレベルの話になってしまうことに、ちょっと不思議な感じはします。しかもそれが、非常にリアルな感覚であるだけに。

2004/11/26 13:04:58
id:simo00 No.7

回答回数1482ベストアンサー獲得回数0

ポイント15pt

人間は罪深い動物で、自分が生きていくためには他の動植物の命を奪って栄養にして行くしかない。

動物も生きているが、植物だって生きているんだ。その恵みに感謝して生きていかなければならない。

てなことを教えたいですね。

id:hkt_o

なるほど。

2004/11/26 13:05:12
id:adamantstone No.8

回答回数7ベストアンサー獲得回数0

ポイント20pt

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4876524025/hatena-q-22

Amazon.co.jp: 「いのち」を食べる私たち―ニワトリを殺して食べる授業 「死」からの隔離を解く: 村井 淳志: 本

クリスマスに鶏の丸焼きを食卓に出し大泣きされた経験があります。その時はちょうどカマキリを飼育していたときだったので、他の生き物を食べなければ生きていくことが出来ないのが肉食動物だということを話しました。

id:hkt_o

草食動物も、植物の命を犠牲にして生きていくのですが。

2004/11/26 13:05:56
id:snaruseyahoo No.9

回答回数491ベストアンサー獲得回数4

ポイント15pt

↑ダミーですが、よろしかったらご覧下さい。

そのお子様は、基本的には肉が嫌いではないわけですね。人間は、生きていくためにはこれらの動物を昔から食べていた。人間に限らず、他の動物達も、その他の生物を食べ、排泄物を土に戻して、そこから新しい命が生まれる。そう云うサイクルになっているので、人間が肉を食べるのは当然である事を話したいと思います。

id:hkt_o

農業が発達した現在、少なくとも日本で肉を食べなければならない必然性はない……というあたりは、暗黙の前提条件とお考えいただきたいと思います。

2004/11/26 13:07:02
id:harabushi No.10

回答回数482ベストアンサー獲得回数12

ポイント20pt

URLダミーです。

私でしたら、

アフリカなどの動物に例えて、草を食べる動物をライオンが食べて、ハイエナが・・・

と食物連鎖の話しをしてあげた上で、

人も動物も食べなければ生きていけない。食べるために犠牲になる動物もいなければ、生物の連携はうまくいかないという事を話します。

更に、そういった動物を飼育したり、解体してくれる人達にも感謝するべきである、と伝え、

残したり、無駄にする事の方が悪い事だと教えます。

年齢によって差はあると思いますが、1回の話ですぐ食べられるようになるとは思いません。

少し時間をかけて、あまりインパクトが残らないよう、回りくどく語り掛ける方が、より子供も考え、納得するのでは。と思います。

id:hkt_o

なるほど。

ただ、そもそも「食べられるようになる」方がいいのかどうか、というあたりはスルーということでよろしいのでしょうか。

2004/11/26 13:08:13
id:kuramoto No.11

回答回数273ベストアンサー獲得回数5

ポイント20pt

すべての生き物は他の生き物の死によって生きています。それは真実です。

だからこそ、人は感謝してそれを、いただきますと言って食べるのです。

それは食べる対象が、動物だからダメで、植物だから良いという訳ではありません。

植物を食すると言うことも、植物の生命力を奪うと言う意味で、動物を食べるのと本質的には同じです。

それを差別するのは、人間の高慢な心のあらわれです。

id:hkt_o

それが嫌なので、食べるのをやめて死にます、という答えもありえる。「生きたい」という気持ちの方が強いに決まっているから、「食べない」という選択肢は最初から考える必要がない、というお考えでしょうか。現実的には、まあそういうことにはなるだろうと思いますが。

2004/11/26 13:13:59
id:chabonohiyoko No.12

回答回数73ベストアンサー獲得回数0

ポイント40pt

アドレスはダミーです。

まず、遠足の目的の中に「食について考える」ことが入っているのか入っていないのかを判断します。(事前の通信などで)

 その上で、まず担任に相談します。(子どもがどう受け取ったかということと、どういう意図で指導したことを適切に把握します。)

 その上で、指導した意図をもう一度しっかりと子どもに言い聞かせます。

 子どものタイプによっては、次のようなことも方法として考えてみるといいと思います。

・親も一緒に肉類を拒否して、子どもと同一感を得た上で指導する。

・親は、うまそうな肉をバクバク食べるのを見せる。

・ラーメンなどを食べる。(スープに豚骨や鶏がらが使われている。)

・命を奪うのがいやなら、魚も、野菜も食べられないことを伝える。

・これを機会に食生活の改善を図る。

その後、担任に報告を入れる。

こんな感じでしょうか。

id:hkt_o

なるほど。私は単なる思い付きの指導を想定していましたので、chabonohiyoko さんは先生を批判されるのだろう……と解釈しました。最近の先生は、思いつきで意見をいうと叩かれます。

2004/11/26 13:29:41
id:kuippa No.13

回答回数1030ベストアンサー獲得回数13

ポイント20pt

http://www.asahi-net.or.jp/~CN1S-FKD/towa/sinryo/anbu/

摂食障害(過食症・拒食症) - カウンセリング

恐らく食べられなくなった子供にとっては「いままで考えもしなかった事実」なのでしょう。

そのまま知らないでいることが幸せなのか、考える機会が与えられたことが幸せなのかは判断しがたくはありますが自分はつぎのように考えます。

いままで食べられていたものが食べられなくなったということは、子供は「その事実」を認識してショックをうけている状態にあると思います。

私が親なら子供にはいろんな選択肢を持って欲しいので、単純に食べるために殺すとか、そのような事象的な実ではなく、こぉ、みみずあたりが土食って耕しているとか、食物連鎖の底辺から徐々に教えたいとおもいます。

肉食獣が肉食ってるっていうのは、より人間に近い高等動物の為、自然に慣らされていない子供はうけるショックも大きいと思います。食べることがどのような事なのか、自分とはかけ離れたレベルの生物から教えてあげたいですね。

みみずが土食べて→金魚がみみず食べてとか。

いきなり知性がありそうな動物の命を子供あいてにどうのと説くのは難しそうです。

id:hkt_o

なるほど。

2004/11/26 13:32:08
id:masasan No.14

回答回数143ベストアンサー獲得回数2

ポイント40pt

急いで解決する問題ではないと思うので、特に何も話さないと思います。

普通に食事に肉を出し、何か聞かれれば一緒になって考えたいですね。

あるマンガでは、肉食をやめてしまった人が、植物も生きていることに気付いて石油合成のたんぱく質を食べることにするという話もありました。

自分と関係性のある(できた)ものに対する愛情が、そのものへの侵害行為に後ろめたさを感じるのかもしれません。

つまり、野菜より動物とのコミュニケーションがとりやすいので肉食忌避になりやすいのかなと…。

それから上のリンクで『神、人を喰う』という本の紹介をしました。

普段はいつも食べる立場の人間ですが、自分より高位の存在を想定したとき、喰われるということに手触りのある恐怖を感じました。

支配下のものへの侵害行為・暴力の本質とは?などと考える切欠がありました。

id:hkt_o

なるほど。石油のもとになったプランクトンは既に死んでいますからね。

じつは私は食物連鎖による説明が好きじゃなくて、それは、「じゃあ人間は誰が食べるのか」が語られないから。火葬とか、水洗トイレとか、人間も何かの食料になるという部分を否定する(もしくは隠蔽する)ような形で人間文化は形成されているわけです。命を貰うときには頑張って理屈を考えるくせに、自分はそれを何もお返しするつもりがない。結局、何が何でも「自分は食べられるなんて嫌だ」という本音があるわけで。

私の場合、どう納得したのかというと、生きるというのは奇麗事じゃないんだ、と。自分は生きたい、そのためなら植物の命だって動物の命だって奪うんだ、と。そのくせ、自分は命を奪われたくない。なんて身勝手なんだろう、でも、そうやって生きているんだ、と。そんなわけで、私は「生きたくない人は死ねばいいだろう、人間様は悲しんでも、それで生きながらえる命がたくさんある。生きたくもないのに生きている奴は最悪だ」なんてことも、ときどき考えます。

2004/11/26 13:47:09
id:mew No.15

回答回数21ベストアンサー獲得回数0

ポイント60pt

http://www.mansai.jp/order/

満菜〜植物性たん白食材や台湾茶のショップ

きっかけは違いますが、まさに肉が食べられなくなった子どもでした。

親はやはり、上の方々がおっしゃっていることを話してくれました。そしてわたしが第一にたどり着いた答えは「そんなことをしてまで生きるのはいやだ」。(悩む家庭でもちろん野菜の命にも思い至り、食がとても罪深い気になりノイローゼ一歩寸前)

じゃぁ生きるのを止める、という選択をしろと言われましたが…これは無理でした。

もちろん、勇気もないし方法も分からない。しかも、生きるのを止めるのは勝手だが、その場合は親である自分たちはとても嘆き悲しむであろうと言われて踏み切るはずもなく。

そうして思い悩んで得た第二の結論が「では命を奪わなくてもすむ方法を開発すればよい(たんぱく質の合成とか)」。

しかしこの結論には重大な欠陥があって、「開発するために自分が成長するエネルギーはどうするか」なのです。

悩みましたねー。結局、目の前の肉や野菜を食べないと成長して開発できないんですから、問題元に戻る。

しかし、この第二の結論を得ておかげで「命をいただいて自分というフィルターを通して未来につなげる」というイメージがわいたおかげで、一気に食に罪悪感はもちろん、肉に対する嫌悪感さえうすれました。この間、数年です。数年の間、激しく拒否する食材も多かったですが、偏食に厳しいはずの親もこの「理性?による偏食」は理解してくれたみたいで、ちょっとは小言を言われながらも自分で解決するまで見守ってくれました。

以上の体験より、

・今までの方が言うように食物連鎖や仏教観などに基づく命をいただくことの尊さを伝える(しかし押し付けない)

・このような理由で肉を食べなくなった子には、とことん哲学的理論的に考えさせる手助けをする(偏った考えに突き進まないようにサポート)

・その際「生きるのを止める」という結論に至ってしまった場合のフォローを考えておく

って感じだと思います。

子どもの体験ですし、まとまってなくてすいません。

id:hkt_o

いや、たいへん参考になりました。日本人が「命を大切にしよう」という教育をやっている以上、こういう「都合の悪い話」を避けたまま大人になってしまう方がおかしいだろう、と私は思っています。

2004/11/26 18:13:56
id:boader No.16

回答回数30ベストアンサー獲得回数0

ポイント20pt

ベジタリアン(フリージアマクロスの社長佐々木ベジ氏の父親は青ヶ島在住ベジタリアン)の存在を教えます。

id:hkt_o

なるほど。

2004/11/26 18:14:15
id:neoarcheologist No.17

回答回数776ベストアンサー獲得回数0

ポイント20pt

http://www.yahoo.co.uk/

Yahoo! UK & Ireland

自分自身、経験があります。しばらく食べなかったのですが、やっぱり食欲にはかないませんでした。動物が殺されても、やっぱり食べたいものは食べたいのです。

もし自分の子どもが拒否して、食べなくなったら、それでもいいと思います。肉を食べなくても、他の方法で栄養はとれます。代替の食事があれば、栄養面では問題ありません。食べる食べないに、良い悪いの問題はないと思うし、好き嫌いは理屈で割り切れるものではないし、食べるように説得する必要はありません。

id:hkt_o

「肉だけ」なら、そういう回答になるのかもしれませんね。もちろん、アリです。安心してください。

2004/11/26 18:15:25
id:TomCat No.18

回答回数5402ベストアンサー獲得回数215

ポイント40pt

新聞の投書欄で、ある一家が旅館に泊まりに行ったら

豪華な活き作りの刺身が出てきた、

という話を読んだことがありました。

まだ生きてて口がパクパクしてるやつ。

で、ご両親が箸をつけようとすると、

突然子供たちが泣き出してしまったそうなんですね。

結局ご両親が何を言っても子供たちは納得せず、

楽しい旅行が散々なことになってしまった、

というようなことが書いてありました。

こういうのは理論理屈じゃないんですよね。

傷つけられたり殺されたりした他の命に接して、

本能的な部分で自らの生命にも及ぶかもしれない危機を感じ取って、

その恐怖感で泣き出すんです。

可哀想とかじゃなくて、怖くなるんです。

これと似たようなことを、

誰でしたか、児童文学者が、

ラジオで言っていました。

まだ戦後の貧しい時代、

魚なんか食卓に上ることがほとんど無かった時代に、

たまたまメザシが手に入ったので

ご馳走として夕食に出したそうなんですね。

そうしたら長男がじっとそのメザシを見つめて、

これって元は生きてたんだよね、

と言ったそうなんです。

もちろん親はドキッとします。

でもその直後に、子供は

「弱肉強食、いただきまーす」

と言って箸を付けたそうです。

人間はある程度本能が抑制されて育っていきますから、

こうした生命の危機の予感から来る恐怖には

個体差があります。

顕著に反応する子もいれば、

理屈で自分を納得させられる子もいます。

大切なことは、他の命の失われた状態に接した時の、

自らの命に対して感じる危機感の払拭です。

お前の命は私が守る、

安心しろ、と震える心を抱きしめてやること。

そしてその上で、生命の尊さとか、

その生き物の命と引き替えに生きていく生命のあり方などを

機会を見て語り合えばいいでしょう。

ただ、食べ物だから食べて当然、

生きていたと言うことがわかったら無駄にせず大切に食べようね、

といった大人の理屈の押しつけは避けたいです。

あくまで子供が、自分自身で答えを出していかなければなりません。

その間、家族ぐるみで菜食にしたっていいじゃないですか。

栄養なんてものは、ちょっと知識を得れば、

乳製品と大豆で全て補えます。

なお、こうした問題に関してはもう何十年も前に、

農業指導者でもあった宮沢賢治が

「ビヂテリアン大祭」という作品で

示唆に富む答えの提示を試みています。

そうしたものを親子で一緒に読んでみることも

有益なことと思います。

id:hkt_o

なるほど。「ビヂテリアン大祭」は、機会を見つけて読んでみたいと思います。私はときどきぶり返すようにこの問題を思い出していて、最後にマジメに考えたのが高校時代でしょうか。埴谷雄高「死霊」の第7章に衝撃を受けたんです。でもまあ、小難しい内容を飛ばし読みしたので、もう往時の天啓は消え失せて、他人にうまく説明できなくなってしまいました。小学生時代の粗雑な納得の仕方の方が話としては簡単なので、とりあえず私の立場を言いなさい、ということになると、そちらを持ち出すようにしています。

2004/11/26 18:26:03
id:panana No.19

回答回数87ベストアンサー獲得回数10

ポイント15pt

http://dic.yahoo.co.jp/bin/dsearch?index=08470200&p=%BC%E5%C...

Yahoo!辞書 - じゃくにく‐きょうしょく【弱肉強食】

「食べてもらうために殺されてここにいるのに、食べてもらえなくて捨てられちゃう方がかわいそう。」

私はそういわれて妙に納得しましたので、自分の子供にもそう話すと思います。

id:hkt_o

その食事では、そういうことになるわけなのですが……。「母ちゃん、お弁当にピーマン入れんといてや」と同じ顛末になりませんか、それだと。

自分が本当に牛や豚だったとして、「食べてもらうために殺された」なんて人間の勝手な物言いじゃないか、と思わないのか? という疑問がどうしても私の頭の中には湧き上がってくるわけですが、panana さんが納得したからには、panana さんのお子さんも納得されるのかもしれませんね。意外と、「そういうもの」だったりするような気はします。

2004/11/26 18:30:07
id:hinop No.20

回答回数2601ベストアンサー獲得回数1

ポイント15pt

http://www.pig.com/

pig.com - Pigs info.

動物も、人間と同じように長い歳月を経て大きくなり、人間に食されてしまうということ。

つまり、自分たちの満腹のために命を犠牲にしているということと感謝しなければならないことを教えたいですね。矛盾してる気がしなくもないのですが。

id:hkt_o

なるほど。

2004/11/26 18:30:27
id:h-yoko No.21

回答回数13ベストアンサー獲得回数0

ポイント40pt

コミック「美味しんぼ」には人間の「原罪」と「業」についての記述があります。

作者の食に対する、並々ならぬ深い考えが伺えます。

何巻か覚えていませんが機会があったら読んでみてください。

URLは美味しんぼが大好きな人のサイトです。

http://tomian.hp.infoseek.co.jp/gennzai-book.html

詩集「食生原罪」の紹介

私の考えを整理して記述すると、

「人間は動物も植物も食べなくては生きていけない。

これから食事のときに、かわいい動物を思い出して食べられないというのは、

これまでは食べられた動物たちに感謝が足りなかったということ。

かわいそうと思うのも当然だが、感謝しながら食事を重ねることが人間としての良い生き方。」

と、こどもたちに言いたいです。

URLは「食生原罪」という詩集の紹介ページです。

id:hkt_o

「美味しんぼ」は、読んだことがあるはずです。伯母の家に全巻揃っていて、高校時代に全部読みましたので。「死霊」が強烈だったので、他はだいたい忘れてしまいました……。

「食生原罪」の紹介ページに「動植物を殺害しているという罪悪感を持つことができれば、殺害するのは好ましい行為ではないので、その犠牲を減らせるのではないでしょうか。」とあるのですが、じつはこの意見には賛成で、その観点から、食糧生産の点で非効率な肉食には批判的だったりします。同じ数の人間を生かすために犠牲となる生命の数を、食の観点から抑制することを考えるなら、人間は肉食をやめるべきです。でも、やめられない。「そんなにお前は肉を食べたいか?」ということは、今でも、よく考えます。

2004/11/26 18:37:21
id:marumi No.22

回答回数2608ベストアンサー獲得回数3

ポイント15pt

どうしても魚や貝類と違い、牛や豚や鶏などは動物的というか人間の肉に近いような感じしませんか?野菜や果物のはないような、また豚にしてもとてもかわいいし、ペット感覚のような生き物を食べるなんてと子どもの中には思う子もいると思います。

でもそういって食べれなくなってもある程度大きくなって年齢も重ねれば、自然と食べれるようになると思います。

親としては、食べ物にしても何にしても感謝の心は忘れずに教えていきたいですね。

id:hkt_o

なるほど。ただ……「自然と」というのは、単に問題意識が希薄化しただけというケースも少なくないわけです。考えないから、問題がなくなったような錯覚に陥っている、という。

「どうしても〜」というくだりは、まあそうだろうと思います。

余談ですが、鯨はダメで牛はいい、という人が世の中にはいます。あるいは、犬はダメで豚はいい、とか。豚は屠殺場を怖がらない、なんて伝説がありますけど、私の見た豚はそうじゃなかった。鶏も、殺されそうになったら必死に抵抗する。そういうのを見て、豚だからいい、鶏だからいい、ということでいいのか、なんて考えたことは一度や二度ではありません。

食べられるのなんて、みんな真っ平だったろう。野菜だってそうで、別に、食べられるために大根が立派な根を作るわけじゃないでしょう。誰にも捕食されない人間の立場で、食物連鎖を口にする傲慢というか、そういうことについて、少なくとも一度は考えた方がいいんじゃないかと私は思います。「そんなこと考えたら肉なんて食べられないじゃない」という意見を頂戴したことがあるのですが、「だったらあなたには肉を食べる資格がない」と返答して仲違いの原因ともなったものでした。

2004/11/26 18:48:42
id:p00437 No.23

回答回数2277ベストアンサー獲得回数13

ポイント15pt

「人間は牧草を牛に食べさせて牛を育て、育てた牛の肉を食べます。」と言った。生態系の話をします。子供はすぐには理解できないかもしれないけれど、なぜ人間が生きていられるかを教えて生きたいと思います。

id:hkt_o

なるほど。p00437 のようなご意見が多いですね。

私は、既に何度も書いている通り、「人間は牧草を牛に食べさせて牛を育て、育てた牛の肉を食べます。」という「生態系の話」では納得できませんでした。なぜ人間だけが、何者にも捕食されなくて当然という顔をしているのか。生きている意味を自ら見出せると、不遜にも考えられるのか。「食べられるために生まれてきた食用牛」といった発想に違和感を持たない感性が、私にはよくわからない。人間は特別だ、と言い切ってしまえるのか。言い切れるとして、その自信はどこからわいてくるのか、私は知りたいです。

2004/11/26 19:14:09
id:umi-sn No.24

回答回数3ベストアンサー獲得回数0

ポイント60pt

http://www.hatena.ne.jp/1101423669#

人力検索はてな - 学校の遠足で、あなたのお子さんが牧場へ行ったとします。牛や豚や鶏との「ふれあい体験」の後で、先生が「牛肉や豚肉や鶏肉を食べるということについて、この機会に、あら..

私も自分自身でこの問題?に自問自答を続けてきたひとりです。

私なら、植物も人間や動物と同じひとつの命ということを教えて(感じさせて)から、あとは、今まで動物に対して皆さんが答えてらしたように、私たちの命を支えてくれている命に感謝する気持ちの大切さを伝えると思います。

「お母さんも悩んだけれどね、今はどんな命にもありがとう、って言いながら食べてね、そして、食べた生きものの代わりに、今はまだ食べる必要のない生きものをできるだけ大切にしてあげてるのよ。いつもありがとうって思いながらね」

という感じでしょうか。

id:hkt_o

初めての回答にこの質問を選んでいただきまして、どうもありがとうございます。

このような質問に回答する、という時点でかなりのバイアスがかかるのかもしれませんが、「犠牲となった生命には感謝すべきだ」という価値観は、日本では、かなり普遍的なようです。にもかかわらず、少なからぬ日本人が食べ物を粗末にしていることをどう考えたらいいのか……と、途方に暮れる思いが致します。とうとう一度も、生命の連環について考えないまま大人になる人が、それほど多いとは思いません。疑問に思うたび、誰かが生命の大切さを説いてきたでしょう。それなのに、何故、食べ物に限らず、多くの生命を粗末に扱う人が一向に減らないのでしょうか。というか、自分自身さえ思うようにできない。たいへんな無力感を覚える次第です。

2004/11/26 19:23:08
id:x2pop No.25

回答回数77ベストアンサー獲得回数2

ポイント20pt

http://www.tabetsuku.jp/repo_15.html

たべるつくる 高草木里香さんの紹介

ずっと昔から嫌いだったことと、この場合でも、「その食べ物が食べられない」ということに変わりありません。

嫌なら食べなくて良いよ。

というでしょう。無理に食べればさらに嫌いになりますし、肉を食べなかったら死んでしまうわけでもありません。

それ以上の深い部分は子どもが自分で考えることだと思います。

もし、なにか疑問に思うことがあれば、答えますが、こちらから特に言うことはありません。

目の前で鳥をしめたりするのをみたり、したことがないので、

1度してみないと、鶏肉に失礼だなと、今、ちょっと思いました。

この歳でもかなりショックだろうな(汗)

id:hkt_o

なるほど。ふと思い出したのですが、自分が「生き物を食べている」ということを自覚したときに、同時に考えたのは、「お父さん、お母さんも、生き物を食べているんだ」ということでした。「大人は汚い!」みたいな感覚の延長だったのかどうかわかりませんが、小学生の私にとって、それなりに悩みの種となった問題ではありました。つまり何が言いたいのかというと、これは「自分がどう生きるか/自分は自分が生きることを許せるのか」という問題であると同時に、「自分は他人が生きることをも許すことができるか」という問題でもあった、ということです。

注:気付きは肉食であっても、ついには「植物だって生き物だ」ということを理解します。すると多くの場合、「他の生き物を殺して食べますか? それとも食を拒否して死にますか?」という二者択一に辿りつくはずです。

単に知らなくて、考えていなくて、だから許容してきた……というのは、どうかな、と思います。これは今回の話題に限らず。もちろん、文明社会は分業社会ですから、何事も自分で一度はやってみる、なんてのは無理です。無理ですがしかし、可能な範囲で、ある程度でもいいので、考えてみるべきだと思います。

2004/11/26 19:34:19
id:x2pop No.26

回答回数77ベストアンサー獲得回数2

ポイント30pt

http://www.hatena.ne.jp/1101423669##

人力検索はてな - 学校の遠足で、あなたのお子さんが牧場へ行ったとします。牛や豚や鶏との「ふれあい体験」の後で、先生が「牛肉や豚肉や鶏肉を食べるということについて、この機会に、あら..

あれだけだと私の考えがちゃんと書かれていないので追加させて下さい。

すいません。

一言で私の考えを言うと、考えたい人は考えればいいけど、それは無謀だと思うから

よほど好きな人だけ考えたらいいのでは? (あるいは考えたい範囲を絞る) ということになります。

なぜそうなるのか、ですが

例として、肉類は人間の人口が増えると同時に飼育する量が増えますが、まずエサが足りなくなるでしょう。

こういった問題はたくさんの方が指摘していることで、食糧危機はそう遠くなく発生すると思います。

しかし、危機感はありません。現在の遺伝子工学やバイオテクノロジーによって、

肉が10倍のブタとか、卵を10倍産むニワトリとか、そういった物が開発されていくだろうという前提があるからです。(既に実験的な開発は行われているようですが)

それらの動物に対するエサも、遺伝子組み換えをさらに進めることである程度まで供給できるでしょう。畑で作っていた物が工場で作られるようになれば効率も上がるでしょう。

しかし、合理化の行き着く先は現時点では(遠い将来は分かりませんが)工場化であり、そのうち、ひたすら分裂する美味しい肉の細胞、なんてものができたら、

その物体に栄養を与えれば食料としての動物自体が必要なくなり、効率的で、もちろん安い価格で供給されるようになるでしょう。

貧困層の食糧を確保するためにも、効率化は必須ですし、競争社会はこういった結果をもたらすと考えています。

現に遺伝子組み換えトウモロコシや大豆のシェアはすさまじい物があります。(エサの方ですが、間接的には食べてますね)

私が昨日、あるいは今日食べている肉と、この工場で作られた肉の内容が同じであっても、生きている物を殺したか否かという違いは存在します。…いえ存在しないのかもしれません。

工場で生産された肉に命があったのか、そして今はないのか、私はそれを確実に判断は出来ません。

しかし、私は肉を食べるでしょう。(食欲がありますから)

他の物が減ってきたら尚更です。

生命とは? とか、細胞レベルで考える、宇宙規模で考える。

ということを始めるときりがなく、それこそ肉が食べられません。(しかし私は肉が好き(^^;)

肉ならまだいいのです。今のところは、食べなくても死にません。(将来、肉以外の食べ物が無くなったら知りませんが)

しかし、医学の分野になると話は別です。

動物で作った人工臓器の移植や、体細胞の復元、こういった技術は上記の肉を作る場合の遺伝子やバイオなど技術的に共有する面も多いのです。

つまり、臓器移植まで考えなければ…となってしまうわけです。

(もっと飛躍すると、ほとんどすべてのことが関係しますね)

技術的に考えると、人工臓器と遺伝子改良肉(?)や、遺伝子組み換えトウモロコシ、

大いに違う点もありますが、共通点も少なからずあると私は考えています。

有機コンピューターは現時点では生命になり得ませんが、将来は分かりませんし、無機質がもし意識を持つ日が来たらそれは生命なのか…考え出したらきりがありませんが、あり得ることだと思います。

そして、すべてのものは0から人間が作ったわけではなく(今の人類にそんな能力はないですから)、何か元があり改良したりして作ったということは、

改良前の物に対しても、こういった生命とか、死といった問題はつながっていると考えます。

食べるために殺す事を考え始めると、私はこういった様々な問題にぶつかり、食べるために殺す事を考えたら難しすぎて死んだ、というのは遠慮願いたいのです。

子どもについても同じです。

自分の人生をかけてこういったことを考えたいのか、ちょっと考えたいだけか、全然気にしないのか、100年後くらいに突然気になるのか、

なので

「嫌なら食べなくて良いよ。」としか言わないし

「それ以上の深い部分は子どもが自分で考えることだと思います。」と成るわけです。

考える範囲までこちらが指定するのは子どもの自由を奪うことですし、

考えるのが良いことか、考えない方が良いのか、考えるべきなのか、

それは本人が考えるべきだと思うからです。

考えることを推奨するくらいなら良いのですが、あまり強制すると考えすぎてしまいます。

人間には不可能なことです。

id:hkt_o

なるほど、たいへん参考になりました。

ところで、無精卵と有精卵について、それぞれ生物として認識しているかどうか、というアンケートを行っています。ちょっとした参考にはなるかもしれません。無精卵も細胞としては生きており、呼吸も行っています。けれども、あまり生物としては認識されていないようです。有精卵は、うまくすればヒヨコが生まれるということもあってか、生物と考えている方が多いようです。

http://www.hatena.ne.jp/1101422885

http://www.hatena.ne.jp/1101422930

2004/11/27 01:32:30
id:umi-sn No.27

回答回数3ベストアンサー獲得回数0

ポイント40pt

http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0188080338

ジュンク堂書店 日本人への警告

コメントへのレスポンスです。

確かに、おっしゃるとおり普遍的なのだろうとは思うのですが、私自身は、個人によって心にのしかかる重みの程度は違うことは否まなくて良いのではないかと思っています。

本当に自分の命が様々な命に支えられて成り立っていることを深く捉え、心から感謝していたら、簡単に生きることを大切に思っていないような言動・行動はとらないと思うし、自殺も流行らないでしょう。

私は、東京生まれですが、幼い頃から社会の大人たちの心ない言動や行為に傷ついてきました。

表面的には「命に感謝すべき」という言葉を発するのは簡単です。それに、もっともなことなので容易に社会に受け入れられるがために安易に蔓延する思想でもあると思います。

今の日本にどれだけ「命への感謝」を実行している人がいるかと思いをはせると、実際は少数派と言わざるを得ない現状しか私には見えません(食べ物を平気で残すという行為はその最も顕著な象徴的行動でしょうね)。

この現状をどうすればいいのか、というのは本当に頭の痛い問題ですが(偉そうにすみません・・)、私は、親が幼い子どもに対してよほど気を配りながら(しかし、親の勘違いに走らないように気を付けながら)そういった想いを伝えて、また、実際に子に感じさせていくしかないのではないかと思います。三つ子の魂百までという言葉の深さを感じさせられる経験を幾度となくしたので・・。最も手っ取り早いのは、農民の子を増やすことかもしれませんね。

自分自身さえできない、という葛藤は私もかかえています。でも、その矛盾をかかえつつも懸命にその思いを伝えようとすることこそがとても大切なことだと思いますし、矛盾に負けて諦めてしまっては何も変わってはいかないのでしょう。矛盾は人間である限り果てることはないのですから・・。

共に頑張りましょう。良問を有り難うございました。

id:hkt_o

どうもありがとうございます。ご意見、参考になりました。

関係ない話をふっと思い出したので、書き留めておきます。いつぞやの米不足で日本人受けしない長粒種のタイ米が輸入され、タイ米と他の米が抱き合わせ販売になったことがありました。ニュースを見ていて吃驚したのが、特集に登場した、とあるおばあちゃんの行動でした。なんとそのおばあちゃん、セットでついてきたタイ米を、そのままゴミ箱に放り込んだのです。この年になって、こんなモノ、食べたくないよ、といって悪びれもしない。家の様子を見ても、庶民ですよ、金持ちじゃない。昔からそうだったろうと思う。舞台は東京都内、つまり、戦後に食糧難を経験しているはずです。それでも、タイ米をゴミ箱に捨ててしまう。そんな馬鹿な……と、衝撃を受けたものでした。

「パンを踏んだ娘」という童話があり、NHK アニメで悲しい主題歌つきで映像化されたものを繰り返し見た覚えがあります。水溜りで靴を濡らすのが嫌で、パンを水溜りの中に捨てて踏み石にした娘は、そのまま泥水の中に引きずり込まれ地獄に落ちる。しかしなおも反省せず、不幸を嘆くばかりの娘だったが……という物語。最後は星になるのではなかったか。あの主題歌は、今も耳に残っています。「パンを〜踏んだ〜娘〜、パンを〜踏んだ〜娘〜、地獄に落〜ち〜た〜」……怖いという印象はなく、人間の愚かさと哀しさが、胸に迫る作品だったと記憶しています。今見たら、案外、どうということもないのかもしれませんが……。

2004/11/27 01:51:29
id:KING3 No.28

回答回数8ベストアンサー獲得回数0

ポイント20pt

URLはダミーです。

まず子供にどうして食べたくないのかを聞き、その理由が深刻なものならば強制的に食べさせたりせず、他の食べ物で栄養を取らせます。しかし、「かわいそうだから。」などといった一言で答えられるような安易な理由だったら「生き物は他の生き物を犠牲にしなければ生きていけない。」「あなたが食べずに残したら殺された牛や豚や鳥はあなたを育てるためではなく捨てられるために殺されたことになってしまうんだよ、命を無駄にしないためにも感謝して食べなさい。」などと言い聞かせ、多少荒療治になっても食べさせます。

id:hkt_o

なるほど。ところで、「なぜ、食べさせたいのか」という親側の理由も気になります。究極には「子どものためを思って」ということになるのかもしれませんが、どこかで飛躍があるのではないか、と私の直感が警鐘を鳴らしています(深刻な問題提起ではなく、ちょっと気になったことのメモです、念のため)。

2004/11/27 01:59:33
id:NAPORIN No.29

回答回数4894ベストアンサー獲得回数909

ポイント30pt

現在肉食を禁じているベジタリアンのあつまりと思われている仏教でも、「三種の浄肉」という言葉があります。自分のために殺されるのを見た肉、自分のために殺されたということを信ずべき人から聞いた肉、自分のために殺された疑いのある肉、のどれにもあたらない場合は食べてよいのです。年月によりきわめて合理的に組まれた教義の一環です。

ちなみに、親戚に修行をつんだお坊さんが居ますが、きびしい精進料理(菜食主義の一種ですね)を続けると現在の日本でも脚気などの病気になってしまい、修行が続けられなくなる(ひざが腫れて座禅がくめなくなる)ので、緊急の場合はやはり栄養剤のサプリメントを飲むのだといっていました。

id:hkt_o

なるほど、興味深いですね。ちょっと調べてみる価値がありそうです。

ところで、「きびしい精進料理」って、どんなものなんでしょうね。脚気は簡単にはビタミンB1欠乏症のことで、ふつうは野菜の摂取不足が原因です。日本では白米食の普及した明治以降に急増しました。逆にいうと、玄米食を心がければ脚気は予防できるわけで、精進料理だから脚気になる……という話は、どうもピンときません。とはいえ、実際、そういうこともあるのでしょう。

2004/11/27 02:08:27
id:moonlightanthem No.30

回答回数285ベストアンサー獲得回数0

ポイント20pt

無理矢理肉食を強制するようなことはしません。一時的にそうなることはありえるし、感情を理解したいと思うからです。ただ家族の食卓を変えることはしませんし、食べられるためにだけ生まれて来る命があること、またどんな生き物も何かの命を奪って生きていて、たとえベジタリアンであっても生きてるものをいただくことには何の違いもないと教えます。

ずっと菜食を通すなら、きちんとしたベジの食事の勉強をして米と豆をはずさず組み合わせて採るように言うかも知れませんね。

id:hkt_o

なるほど。

多くの回答をいただきまして、たいへん参考になりました。以上で質問を閉じたいと思います。

2004/11/27 18:18:44
  • id:YasudaS
    よろしいのです

    >稀に、それっきり肉食をやめる方がいます。それでもいいのか、というあたり、

    食べたくないなら、食べなくてもよろしいのですよ。
    鶏肉を食べなくなった子は、ご飯の量が減ることがあるだけです。

    他の料理をかわりに出すこともしないですし、全部食べろと強要するわけでもない。
    「無駄にしたいなら、明日からの鶏肉料理はお前の分を作らない」と伝えて、
    その様にしていましたね。間食は厳しくチェックしておいたら、暫くしたら、
    ひもじいのか食べると言い出しました。

    もし、そのまま食べなかったら、それはそれで問題もないでしょう。
    食材を無駄にするなんてことは出来ませんからね。

    肉をとらないというのは、許されることです。
    偏食によって体の発育が悪くなるとしても、そうなるであろうことを教えておけばよい。
    本人が納得しているのなら、本人に任せてよいわけです。

    何が問題なのだろうね。

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