(o^ー’)b
「書けなくなってしまった」という理由には、
二つ考えられるでしょう。
ひとつは自分の文章読解力が書く能力を上回り、
書いている文章を読んでみて、
だめだこりゃ、と思ってしまう場合。
もうひとつは、長文を書く機会が少なくなり、
ノリを忘れてしまった場合です。
どちらにせよ、そんなに深刻なものじゃありません。
長文を書くといっても、やっていることは、
数行一単位の段落を書いているに過ぎないんですから。
小説を書く時は、まず全体の章立てを決めていきます。
プロローグ、出会いの章、発展の章、事件の章、急展開の章、エピローグ・・・・
みたいに、頭の中のストーリーを、
どんな順番にまとめていくかを計画して、
それから書き始めていきます。
普通の文章も、だいたいの論旨が決まったら、
それをどんな段落の組み合わせで書いていくか。
それを決めてから書き始めれば、
あとは数行程度の短文の積み重ねに過ぎなくなりますから、
スラスラと書き進んでいくことが出来るようになりますよ。
むしろ短文をバシッと書いていける能力が、
長文を書いていくという作業を支えます。
書いているうちにノリが戻ってくると思います。
とりあえずダイアリーで長文シリーズ、
やってみてはいかがでしょう(^-^)
文章は相手を納得させるために書き物ですから、①書こうとしていることを相手が知らない場合②書こうとしていることについて相手が批判的に考えている場合を想定し、①書く内容の具体的な説明②書く内容を相手に説得するための具体的な根拠を、事前に列記して、肉付けする形で書いたら如何でしょうか。
同じ悩みに悩むものです。(笑い
私も、子供の頃は娯楽作家になろうかな なんてたわけた夢をほんの一瞬(14秒くらい)
思っていたもので、それなりに書き物には自身があった(一瞬:6秒くらい)のですが、
この2〜3年、仕事の多忙にかまけて これをやっていなかった為、最近じゃめっきりです。
実は長文をだらだら書くというのは誰にでも出来る事なわけで、実際はそれをいかに
読ませるか――構成力、というのが大事になってきます。
これを養う手っ取り早い手段は、やはり多くの書物を読む、という事ではないでしょうか。
またその際、「わーこれおもしれえーケラケラ」で済ませているようでは、一介の読者風情で
人生を終える事になってしまいますので、それがいかに構成されているのか、というパーツ分けを
試みつつ目を通す事が大切です。出版されている多くの書物は、その道のプロの編集者の
校閲によって、キレイに構成されています。
注意が必要なのは、web上の文章です。その多くが個人の独力で記されており、編集と
いうプロセスが不在です。こういう文章は、専ら著者の興味が先走っており、単一の視点に
よる書きなぐり状態になっている事が多い為、それが例え面白かったとしても、然く秀逸な
構成を伴っているとは限りません。
http://portal.nifty.com/special04/10/02/
@nifty:デイリーポータルZ:テルミンをとうとう作ってみた
私が最近アタマに来た(言い過ぎか)web上のテキスト。「オチが無い」。
http://www.st.rim.or.jp/~k-kazuma/IE/IE052.html
起承転結による文章構成法はほとんど役に立たない
古来より伝わるセオリー『起承転結』についての一考。
プログラムという、一般に冗長化が嫌われる分野が、著述一般の構成に必ずしも通じるのか、というのは私にはよくわかりませんが、『いいたいこと/やりたいこと』をまず明確にしておく、というプロセスはどちらに於いても重要かとは思われます。
以前私が読んだオブジェクト指向の紹介書には「近い将来、キーボードに向かい直感的に
プログラムを築き上げていくタイプのプログラマは排斥されるだろう」というような書き出しで
始まっていましたが、私としては、そのテのインスピレーションのままにキーボードを叩いて
いく行為が、あの無機的な文字の羅列にある程度面白みを与える部分もあるとは思うし、
書き物にしてみたって、ペンを握って紙を前にし、初めて想像力が湧いてくる、という事も
あるわけです。
こういったものは、人に見せてツッコミを入れてもらうのが、最適化するに一番手っ取り
早いわけですが、そういう『編集者』が不在な場合は、一人ツッコミしなきゃなんないわけ
ですから、これはもうひたすら『客観性』という観点を自己の内に養っていくしかありません。
それには日常生活のレベルで、常に一歩引いた立ち位置での物の見方、というのを用意して
おく事が大切です。それはまた、自分とは全く逆の考えが存在する可能性を常に想定しておく、
という想像力も要求され、構成力を高めるには非常に有効な手段と考えます。
なんにしても、日々の生活に根ざしてくる話ですね。さてこの長文はどうだか。。。
なるほど
別に致命的ではないです。
プログラムには、目的があります。
その機能を実現するために、いろいろ記述するのです。
yujihiroseさんの場合は、きちんと最初から プログラムについて勉強したほうがいいのではないのかと思いますよ。
あと、プログラムは 長いのがいいわけではないです。短ければ短いほうがいいでしょう。
もちろん、わかりやすく記述する必要はありますが。
そーですねえ
本を読まれることが一番手軽で効果的だと思います。(持論ですが)
本を読むことにより物事を筋道立てて進めていく技量がアップすると思います。結果プログラムの開発技術に対する考え方も変わるのではないでしょうか。もちろん言語の勉強も必要でしょうが^^;
私にも同様の時期がありました。
気持ちがおちつかないと、どうも散文しかかけなくなるみたいです。
いますぐに、、というわけにもいかないので、お風呂に入ったときとか、寝るときとか、電車に乗っているときとか、う○こしているときとかに考え付いたことを少しずつメモにとったりしていくのが良いと思います。
キーワードはメモ
http://www.janis.or.jp/users/chicoi
CI研究所トップページ
昔、長文が書けたときは、どんな書き方をしてましたか。私が長文を書くときの書き方です。
まず大きな章の目次をつくります。目次の章にそれぞれ小さな段落を作り、小見出しをつけます。
それぞれの小見出しについて、メモや参考資料を作ります。メモと参考資料がほぼ揃ったと思われる段落から書き出します。基本的には第1章の最初から書き出します。
まず当初予定している半分くらいの分量で書きます。その上でそれぞれの段落を書き足します。
昔、手書きのときは何度も書き直しましたが、ワープロになって楽になりました。
小説は準備は一緒ですが、最初から全量を書きます。その上で何回も推敲します。
こんなところですが参考になるでしょうか。とにかく書く内容をメモや資料で準備してから書き始めると言うことです。
http://www.hatena.ne.jp/1104006260#######
人力検索はてな - 昔はまとまった長文が書けていたのに今は散文しか書けなくなってしまいました。これはプログラムをやる上でも致命的です。なんとかならないでしょうか?..
プログラムを書くことと長文を書くことには何ら関係がありません。気にしないように。
はい
実は私もその傾向にあり。自分で最近感じることは、本の文章を読む時忙しい余り、斜め読みや飛ばし読みをしてしまっている事です、やはり多忙も原因として考えられ、ゆっくりと物事を考察していないとか、人との会話も短い言葉で済ましてしまっているから?兎に角お歳お幾つか不明ですが短気にならず、少しゆっくりした方がいいのかも?くだらない答えですみません。
(URLもダミーでした)
上記URLのページ内容のとおり、散文は長文の意味があります。ですから、単文の意味で質問したのですか?
で本題です。
日記を書いてください。これはかなり効果的です。外国語を習うときも自分の日記を書くと習得が早いそうです。
はい