「コペルニクス的転回」という用語でgoogleで検索したときに上位にあがるURLを4つあげます。
1.http://www2s.biglobe.ne.jp/~asanami/kope.html
2.http://www.tabiken.com/history/doc/G/G289C100.HTM
3.http://gourmet.yahoo.co.jp/gourmet/restaurant/Kinki/Kyoto/guide/0403/M0026000008.html
4.http://www6.plala.or.jp/swansong/2/001120ver2.html
もともとはカントの用語ですが、上に上げるように肯定的・否定的ふたつの立場があるようです。このことに関して論じていただいても結構ですし、半分ネタ的な部分もありますので、3.のURLのような情報も面白いと思います。
URLダミーで結構です。うならせる回答を希望します。
コペルニクスは、概念論を説いたのではなく、星の動き・太陽の動きを相対的に観察して、天動説に矛盾があることを「立証」下のです。
よって、「人間の主観的見方から客観的見方に転換した」というのは、事実と相違した観念論に過ぎないですね。
コペルニクス的転回とは、本来新たな事実関係の発見により、真実を立証する時に用いられるものでしょう。
肯定否定、というのは、「カントの認識批判はコペルニクス的なりや否や?」という意味でしょうか?それとも、この世の全ての「コペルニクス的転回は肯定的なもの/否定的に捉えるべきもの、である也」という意味なのでしょうか?どちらとも意図が取りづらいので、とりあえず両方答えてみます。
まず前者の意味で申し上げますと、カントの立場からすればコペルニクスの業績自体が「データに基づいて構築された主観の有り様の転換」なわけで、必ずしも「主観に先立つ事実の変更」とは見なせないわけです。よって、カントがカントの立場から自らの認識批判による哲学的転回を「コペルニクス的」と名付けたこと自体を、カントの立場に立たない人が批判しても全く意味がないと思います。
要するに、「サッカーはGKで全てがきまる也」と考えている人が、「いまいちだったが最後のつじつま合わせ程度でしかなかった自分の仕事結果」を「北朝鮮戦で言えば大黒的働き」と名付けたとして、それを「大黒=ヒーロー」と考える人が「彼の業績は決してヒロイックではないので、彼は間違ってる」と批判したとしてもピントはずれですね。そういうことです。
後者については、二番目のURLの方と同じように私も「コペルニクス的転回」が大好きなので、昔から、「普通の人がしないことをするのがいいのだ!」と思って色々やってきました。
自分が単なる「天邪鬼」なのではないだろうか?と気付いたのは、最近です。
http://www6.plala.or.jp/Djehuti/363.htm
吉野源三郎『君たちはどう生きるか』 /トート号航海日誌(読書録)
そんな私に「コペルニクス的転回」という言葉を教えてくれた(そして多くの人にとってコペルニクス的転回という言葉が肯定的に捉えられている理由になっている)のが、本書ではないでしょうか。
というわけで、私にとってのコペルニクス的転回とは、「天邪鬼」または「コペル君」ということで。
あまりうなって頂けなかった場合、お詫び致します。……m(__)m
カントは「データに基づいて構築された主観の有り様の転換」として、コペルニクス的転回をとらえており、自己の認識の逆転を肯定的にとらえていると思います。
日本人は吉野源三郎のコペル君の印象が強くて、カントの用語であることを意識せずに使っており、そうした意味で。コペルニクスにおける認識の転換ーどりらkというと、主観的なものからデータに基づいて構築された客観的立場への転回ととらえているように思います。
>あまりうなって頂けなかった場合、お詫び致します。……m(__)m
いえいえ、論点の整理ありがとうございました。多謝。
http://hoffnungenlied.cocolog-nifty.com/kaizen/2005/02/post_...
改善案まにあ: 【思考の盲点】責任や原因は、必ずパーセントで考えよう。
単なる持論ですが、多湖輝先生が先日TVで言っていた、「盲点力」(己の盲点をできるだけ無くす能力)との関係で考えると、何らかの固定観念で気づかなかった事も、先入観等の盲点に気づく事で発想法を変えれば、「コペルニクス的転回」になると考えています。
一度、現行法について知人に文句を言っていたら、(知人は法律関係の人で)「それに関する意見書をまとめていた所だったから、その意見を出して良いね?」と言われたことがあります。自分の意見が役立つ事もあるし、出す先をきちんと検討すれば無駄にならず人の役に立つ事まである、という経験は、私の発想自体を変えました。
日常的な意味での「コペルニクス的転回」はまさに、ご指摘のようなことと思います。
私自身は、教わった後に登山で山頂から、半月を見る機会があり、このとき半球を太陽に照らされて光る月と、夕方の昼の半球から夜の半球に映りつつある地球が、並んで天空に浮かび、太陽の光を反射している配置が脳裏に映像として浮かび、ああコペルニクスの見方をするとこんな風になるんだと実感し、それまでの経験的な天動説的見方から脱却したという体験が、まさに「コペルニクス」的転回でした。
カントが、「コペルニクス的転回」をカントなりの用語として使っていることを知ったのはずっと後でした。
ありがとうございました。
http://pubweb.cc.u-tokai.ac.jp/mhayashi/Galileo&deCarteNewton.ht...
ガリレオ・ガリレーの科学とデカルト・ニュートン
私は、コペルニクス的転回というと、ニュートンの万有引力の法則を思い出します。
キリスト教が学問(科学アカデミー)などに対しても影響力を持っていた時代に、
ガリレイはコペルニクスの地動説を擁護し地動説を唱え、宗教裁判にかけられています。
ガリレイがバチカンから許されたのは、最近だった気がします。(1990年代に、新聞でその記事を読んだ記憶があります。)
ニュートンは、それまで神聖とされてきた「月」も、「りんご」と同じ物体であると考えたことから、「なぜ、月は落ちてこないんだろう?」と考えたことから、あの落下の法則が発見されました。
このように、従来、既存の権威により当然だと考えられてきたものを、改めて問い直せるような認識の自由を得ることが「コペルニクス的転回」に象徴される意味の一つなのではないかなぁと思います・・・。
この話から、更に想像が膨らみ、ダーウィンが「種の起源」をなかなか発表することが出来なかった時代背景について思い出します。
ダーウィンが学生時代の頃、神の権威を損ねるような発表をした学者が「悪魔」呼ばわりされ批判をされました。
そのため、「生物は神の創造物」であったことに真っ向から反対するような「進化」の概念をダーウィンは発表することを躊躇っていたそうです。
ところが、同じような内容の論文を他の人間が発表するという噂を聞いて、やっと「種の起源」の出版を決意したと聞きます。
(注:このような社会情勢の変換と科学のパラダイム・シフトは同時期に起こることがありますが、よくクーンが誤解されるような“「パラダイム」はプロパガンダや集団の勢力争いで決まるものだ”という結論にはならないと思いますけれども。念の為。)
さて、カントのコペルニクス的転回(?)ですが、カントは、思考を逆転させて、「対象が認識に従う」という考えを出したので、その自身の発想をコペルニクスの業績になぞらえているのですよね。
実質的には、コペルニクスの地動説がもたらした科学史におけるインパクトと、カントの「コペルニクス的転回」になぞらえた認識論は別物だと考えています。
別物なので、「コペルニクスvsカント」や「カント擁護」という議論は
成立しない気がします。
ところで、蛇足ですが、「ねじれた松も、松に沿って見ていけば真っ直ぐである」というような事を言ったお坊さんがいたそうです。(残念ながら、名前失念。)
この話は、SO-Shiroさんが仰っている「自己の認識の逆転を肯定的にとらえていると思います。」に通じるような気がします。
どちらかというと、Stephanさんも私の感覚に近いですよね。カントの用語と、科学史におけるコペルニクス革命とは確かに別物と思います。
ただ、哲学界においては、カントは革命的な視点の移動をしたのかもしれないのですが、このあたり専門家の意見を聞きたいところです。
ありがとうござしました。
もう少しオープンしておきます。
http://www.hatena.ne.jp/1107961842#
人力検索はてな - あなた(回答者)における「コペルニクス的転回」のときとは、どんなときですか? 「コペルニクス的転回」という用語でgoogleで検索したときに上位にあがるURLを4つあげま..
油汚れを落とす時に水で落とすのではなく油を使えば、よりたやすく落とすことが出来る。
発想の転換、という意味ですね。
常識にとらわれない考え方は常に大事ですよね。
人の背中は見えるが、自分の背中は見えない
僕は「コペルニクス的転回」は日常的にしないといけないものであると思う。
特に日本人は物事を一方からしか見ない事が多い。
僕のサイトは「コペルニクス的転回」だらけであると思う。
(一般的な考えでない事じゃないと書く意味がないと思う)
人の背中は見えるが、自分の背中は見えない
>僕のサイトは「コペルニクス的転回」だらけである
いいじゃないですか。
固定観念にとらわれるようになると、退歩が始まるのかもしれません。
わたしもキューブリックの「2001年宇宙の旅」を見てから、宇宙空間から見た地球と月、という視点の転換ができるようになったクチですので、日常的に見える物の見え方が真実と思いこんではいけない、人類はまだ真理に到達しえない段階にいるという自覚が必要であると思っています。
ありがとうございました。
これで終わります。
sami624さんは、どちらかというと「1.」の立場ですね。
さて、カント擁護派のかたは、いないでしょうか?