http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4334782256/qid=11154659...
Amazon.co.jp: 放送禁止歌: 本: 森 達也
私は団塊ジュニアで、リアルタイムでこの歌を聴いたわけではありません。しかし、森達也さんの『放送禁止歌』でかつて闇に葬りさられた歌のひとつとしてこの歌にめぐり合い、驚愕しました。被差別部落で歌い継がれてきた歌を歌っても、それは決して差別行為にはなりません。むしろ、被差別部落に関連するものごとすべてをタブーとし、語ろうとしないことが差別を増幅させていくのだと思います。この歌がもっと多くの人々に知られていれば、被差別部落に対する偏見を打ち崩すきっかけになったかもしれません。おそらく今も放送局では「倫理規制」という名目で、同じような情報のフィルタリングを行っているのでしょうね。知るべき情報を隠蔽されているかもしれないと思うと、恐ろしいです。
http://www.asahi-net.or.jp/~ns8m-hgc/movie/db/DB956.HTM
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↑ダミーちゃん
差別というのは、単にある特定の語句自体でできるものではありません。そこに何らかの意図なり意志なり意識が介在することなしには差別は起こりえません。
しかし、その語句を発する側にそうした意図や意志や意識がなくても、その語句を耳にしたり、目にする者の側に(そうした意識や意図や意志があったり、もしくはそれらが喚起される下地があったとするなら)その時点で「差別」という行為、差別という意識が発動することになってしまいます。
そうした「差別」を告発したり糾弾する者が、ある時期、その告発や糾弾の矛先をそうした語句を発信したり配布や販売するその元の責任としていた時期がありました。たとえ、そこに「差別」の意図や意識や意志が皆無であっても、そうした語句が被差別者に対して一種の「刃」として作用すすることに無自覚であたり、無感覚であることは弾劾されるに値するという論理だったのでしょう。したがって、そうした語句を発信したり、配信したり、販売する側は、たとえそこに「差別」の意識や意図や意志はなくとも、場合によってはそうした語句を受けた側が「差別」や「被差別」の意識や意図や意志を喚起してしまうおそれ(可能性)のある語句をリストアップし、それを内部的な自己規制のコードとして採用し、それらのリストにある語句を自分たちの(情報の)発信や配信や販売活動から排除することで「差別」に対して、これを告発し糾弾し、廃絶しようとする者の意向に応じ、かつ沿おうとしたのでした。
差別という内面の意識の問題をある種の特定の語句に集約して、それらの語句を排除することで、ひとつの社会から「差別」を廃絶できるとした(まあ、一種の)技術論でしょうねえ。方法論としてはあまりに貧弱にすぎるでしょう。そういう犠牲になったのだと思います。
本当に差別の意図や意志があれば、むしろ、より巧妙に偽装し、さらに巧妙な言い回しやレトリックを用いて差別しようとするでしょう。したがって、民間伝承のむかしながらの歌の文句に(そうした時代と地域を越えて)差別の根を見出そうとするのは、けっして賢いこととは思えませんね。
不特定多数に情報(ととりあえずしておきますが)を発信したり、情報を配布や販売する側は
民間伝承の歌謡の歌詞の一部、すなわち端的に言ってある特定の語句が「差別」という意図を示すことは
なるほど。ただこの曲に関しては、フジテレビが同和の事務局に問い合わせたところ、どうぞ放送してください。と言ったのです。どうも放送局側が自主規制した感が否定できない状態です。ただおっしゃる意味もよく分かります。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0845.html
松岡正剛の千夜千冊『放送禁止歌』森達也
随分昔のお話ですね。
今の若者達はそんなこと気にしないから勝手にどうぞ、と思いました。
そうですか。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4334782256/249-7316706-...
Amazon.co.jp: 放送禁止歌: 本: 森 達也
「放送禁止」というのは、要するに「クレームを受けたくないから止めとく」という自主規制に過ぎず、誰が「禁止」したわけではないですね。
もちろんそのような過剰な「自主規制」が生まれてしまった経緯というのも理解はします。しかし放送局の側にも「文化の担い手」としての矜恃が、そして知識が余りにも欠けていたのではないでしょうか。
「触れるとうるさいから触れない(放送自粛)にしちゃおうぜ…」……それこそが「差別」だということを、理解すべきだと思います。
そうですよね。臭いものに蓋を?したのかもしれません。
http://www.beats21.com/ar/A04021902.html
Beats21 - 講演「竹田の子守唄 名曲に隠された真実」---藤田正@高野山
お恥ずかしいことに、この曲を放送局が自粛していたということを、この質問を拝見して初めて知りました。幾つかのサイトを見たうえで、色々考えたことを回答させていただきます。
一応、私が参考にしたURLを幾つか紹介します。
まず、このURLでは「竹田の子守唄」が世に出た背景・自粛された経緯について触れられています。
こちらは「わらべうたと差別」について書かれたものです。今回の質問において問題にあげられているのは「竹田の子守唄」ですが、こちらも大変興味深い内容でした。例として「とおりゃんせ」「ほたるこい」などが挙げられています。
私は東北に住んでいます。
私の生まれ育った市には、ここで問題とされているような「被差別部落」と呼ばれる場所がありませんでした。教科書には載っていましたがそれは表面的なもので、具体的にはどういったものなのか全く分からないまま大人になりました。授業で習ってもイマイチ分からず、両親に聞いたのですが、両親も具体的には知りませんでした。どうしても気になったので、大人になってから自分で調べ、初めて具体的な内容を知りました。ただ「知った」と言っても、それすらも表面的なもので、一部分でしょうが……。
そういう環境で育った私にとっては、「竹田の子守唄」が差別的である、と言われても正直ぴんと来ません。この歌で問題になっているのは「在所」という部分、ということですが、それが歌の中に入っている=差別的、ということも正直に言うとイマイチ理解ができません。その地域(もしくは地域をさす言葉)が入っている=差別、という繋がりが分からないからです。
もしも、この曲を聴くことで傷つき、悲しむ人がいるのであれば、それはいかに名曲であろうとも正しくないのかもしれません。そして実際に「この曲を聞くと傷つく人がいる」かどうかを判断するのは非常に難しいことだと思います。放送局側の意向で自粛されたようですが、それを簡単に「大間違い!」と言い切る自信が私にもありません。なぜなら、言い切るには知識がないからです。おそらく、この曲を自粛した人々も、表面的な知識しかなかったのではないでしょうか。「この曲を、差別的だと指摘する人もいるけれど、そんなことはない!だから放送しても大丈夫!」と言える人がいなかった。だから世論が大きく前に自粛した……。竹田の子守唄だけではありません。ちびくろサンボ、ほたるこい、とおりゃんせ……どれも同じような感じですよね。直接的には差別を意味する表現はどこにもない。しかし、指摘する誰かがいる。誰かが差別的だと受け取っている。これには、日本語が非常に複雑な「含みを持った」言い方ができる言葉だということも関係していると思います。
なんだか話が逸れてしまいましたが…。
一番大切なことは「差別的なものを隠す」ことではなく「差別をなくす」ことだと感じています。実際に差別を受けたり、見たりしているわけではないので、その過酷さ・辛さは正直なところ分かりません。しかし分からない=どうでもいいとは思いません。差別が実際に無くなっていないからこそ問題になるのでしょう。であれば、綺麗事かもしれないけれど、そういった悪しき習慣をなくさなければ、「竹田の子守唄」に限らず封印されてしまう曲はなくならないでしょう。
また実際には解決していないのに「過去のこと」という程度にしかこの問題に触れない日本の教育にも問題があると思います。別に問題を抉り出したり大きくしたりするのではなく……地域や出自、職業や系譜で人を差別することはあってはならないことだ、そのために傷つき苦しんでいる人が大勢いるのだということを上っ面だけではなく、真剣に多くの人が考える必要があると思います。
長くなってしまってごめんなさい。
ありがとうございます。東北には披差別部落はありません。かくいう私も東京に転勤するまでわからなかったのです。歌詞を変えれば歌ってもいいのかはどうでしょう。
http://www.beats21.com/ar/A03040302.html
Beats21 - 「竹田の子守唄」というメッセージ・ソング(6) by 藤田正
京都の竹田(京都市南部)という地域がこの歌のルーツのようですが、4番の歌詞に出てくる在所という言葉がいわゆる被差別部落を表す言葉でもあるというあたりがTV放送局等の放送自粛の判断のようですね。。。歌詞の意味は別として、そのメロディーや美しさ等の芸術面で優れた歌として評価される一方、これを実際に聞いて、つらい記憶(※被差別部落出身であることや、その地域出身の女性が子守として奉公に出されたなど)を思い出してしまう人もいる。この辺の判断が難しいのでしょうね。放送局の判断としては後者を重視しているのではないかと思います。そういった意味では放送自粛もやむをえないと思うのですが。
では、歌詞をかえたらどうなるのでしょう。赤い鳥は歌詞を変えた曲だけでも10曲ぐらいあります。
ありがとうございます。おっしゃるとおりだと思います。