参考リンク : http://d.hatena.ne.jp/michiaki/20051026#1130337796
「死んだら終わり」ではない、という方の回答はご遠慮ください。
姉は自ら死んでしまいました。
遺書にはいろいろな希望が書いてありましたが、母はいい加減な人で、遺書通りにしてあげたことは一つもありません。頑張って闘病していたのに、もう治りかけていたのに、死んだら終わりだと・・・姉の遺体に着替えをさせてあげながら何度も話し掛けましたが、返事はありませんでした。
http://www.hatena.ne.jp/1130340247#
人力検索はてな - 「死んだら終わり」ということを、容赦ない感じで説明してください。 参考リンク : http://d.hatena.ne.jp/michiaki/20051026#1130337796 「死んだら終わり」ではない、と..
urlはダミーです。
そもそも、自分以外のものは本当に存在しているのだろうか?
人間は五感で物の存在を認識する。
認識しているのは脳である。
そして人間の脳は、電気信号で動く。
とすれば、電気信号次第で、脳は、あらゆる錯覚を起こす。
例えば、何かが身体に当たる。
「痛い」というメッセージは、神経から脳に伝わる。
伝えるのは、電気信号の役割である。
とすれば、実際に何も当たっていなくても、電気信号さえ脳に送られれば、痛いと感じる。
その電気信号が間違えて送られていない保障はない。
例えば、夢の中では確かに歩いている感覚はある。
でも、その感覚は電気信号によって作られている。
つまり、あくまで脳が錯覚を起こしているだけ。
実際に歩いているわけではない。
だったら、我々が見ている全てのものは、実は存在しなくて、
単に脳に電気信号だけが送られた結果生じている錯覚かもしれない。
自分以外の物自体が存在しないかもわからない。
で、死ぬってことは、つまり、電気信号が送られなくなるってこと。
電気信号だけが物を存在させていたのに、その電気信号が途絶えるってことは、
全てが終わるってことになる。
よって、死んだら全てが終わり。
ここまで考えると、疑問になるのが、そもそも自分さえ存在するのかってこと。
自分の存在は、考えたり、自分に触ったりして確かめられるけど、
それだって、電気信号なのだから。
「全部電気で説明できます」説。
はやくうなじにUSBのソケットがつくといいですね。
死にかけて生き返った人はいますが、完全に死んでから帰ってきた人はいません。
つまり、死後どうなるのかは誰も知りません。どこへ行くのかわからないところへ行くのはとても恐ろしいです。
人間の記憶は脳の中にあり、死ねば焼かれてしまうのですから、物理的には完全に無になります。
それでも終わりでないことを説明するために宗教では霊魂という言葉を使うことが多いのですが、現代科学ではあると証明されていません。
霊魂は死への恐怖心をごまかすために、人間が作り出した妄想の可能性があります。
死は本当に怖いです。
「死んだら終わり」という立場からの回答でお願いします。
「終わりではない」でも「終わりかどうかはわからない」でもなく。
そういう設問です。
http://keiba.yahoo.co.jp/scores/2005/09/03/04/11/ninki_tfw.html
Yahoo!���ݡ��� ���� - 2005ǯ3������4����11R ���͵�ǰ
ダミーです。死んだら終わりです。
その人とかかわった人は終わらないでしょうが。
死んだ本人は終わりです。もしもあっても
誰?あなたです。
逆に言えば苦しいことも終わりです。どんなに惨めな人生でも、1億の借金が
あっても終わりです。払う必要がありません。
関係者は終わりませんが(苦しみも)本人は終わりであり、終わらせることが可能です。
楽しいことも、思い出も終わりであり、
苦しみも終わりなのです。本人は・・・
淡々とした、というか普通の「終わり」ですね。突き付けられるような感じはしない。
「かかわった人」「関係者」は終わらない、とこの短い文章で2度も出てくるあたり、
なにかあるのでしょうか。
URLはダミーです。
私は、自分が生まれる前にどうしていたのか思い出せません。
自分が生まれる前は「自分は存在しなかった」のなら、それは正しいでしょう。
では逆に、「私が死んだ後にどうなるか」についての、たしかな知識も持っていません。
現在生きている人で、死んだ後に自分がどうなるかを知っている人などいないでしょう。
要するに、現在生きている自分と、生まれる前や死んだ後の自分のつながりはないのです。
「この世とあの世」という考え方や、ましてや「生まれ変わり」なんて、生きている者が苦し紛れに考え出した、「こうだったらいいな」という希望でしかないのです。
それはつまり、「今ここにいる私」は、「死んだら終わり」ということだと思います。
理詰め。説得されなくはないですが。
もっとこう、積み重ねではなく、読んで腑に落ちる感じの回答を期待です。
葬儀マナーの基本
URLはダミーです。
死んだら終わり、これを実感するのは、肉親や幼馴染みの友人や恋人など自分が心底大事にしている人が死んだ時、葬儀に列席し棺おけを運び等すると強く実感できます。葬儀は思い深いか、形式上であるか、さして差はないのが実態でしょう。死体を運ぶ時、死体へ語ろうとしても会話は出来ずただの重い荷物でしかない。動かないから沢山の人で運ぶ必要がある。運んであげても有難うなど言わない。夏場は汗だくでも正装で、香典や葬儀代がかかり仕事休んだりたいへんです。極端には葬儀が頻発するといい加減にしてくれといいたくなる。ゆえに、死体の後始末=葬儀はある種迷惑ともいえます。しかし、親しいから、肉親だから、愛あるゆえ、面倒な事を面倒だと思わずに一生懸命やってあげれるのです。よく財産目当てなどということがありますが、あのような金に関わる論争は良いことはけしてありません。それどころか借金がある場合相続放棄することもある。その時気がつくのは、どんなに丁寧に弔ってあげても、死体は所詮、後始末に大なり小なり迷惑をかけるモノでしかないということ。葬儀は家族の気休め、気持の切り替えの為とも言えるということ。
例えば、火葬場での扱いは見た目は厳粛にみえますが、良く観察すると葬儀料や根回しに関わらず係りの対応は形は丁寧ですが結局便宜上である事が観察できます。幾ばくか、焼いた後にこぼれた灰は拾いきれずさっさと次焼く死体のために、はき捨て散されて全部骨壷に入れられるわけではない。生きた人間ならそれは大事な肉片ですが、死んで焼いたらはき捨てられるチリです。他人の灰も交じってるかもしれない。葬儀も何回忌か法事を重ねるごとに年毎にだんだん忘れられる。お経も早く終わればいいとおもうようになり勝ち、子孫ならひょっとして遺影すら見てないかもしれない。不謹慎にも面白がって笑う場合もある。しかし、それをとがめるのは筋違いです。時間を割いて、労を割いて法事に出てくれてるのですから。法事が終わるとお礼の食事会です。宴は良い意味でも悪いい意味でも親族の親睦会です。その場の会話は故人の話より、中心は今生きている人たちの会話です。他の人たちの心情は察しませんが、想像するに死んだ人をいつまでもひきづってもやるせない故でしょう。気持を切り替えることです。ゆえに下世話だけでも、生きている人たちにとっての興味は本人達の生活の事です。精一杯生きること=これが死人から学ぶべきことです。したがって、
親しかった故人の生き方は反面教師となることがあります。これらはまだ良い方だと思えます。考えてもらえるだけマシ。親戚が死んだ人によって葬儀がされて、交流がもたれるわけですし。残された家族にお金がない、愛がなく、葬儀さえされないケースは多々あるでしょう。無縁墓地にはそういう故人がいます。これもまだましか形になってるだけ。死んだ事すら知られない事もありますね。・・・
また、死んだ人をいつまでも想い続ける人たちが良くニュースで出ますが、これは並大抵でないと思えます。日々、死人の事を考え続けることは日常に支障を来たし、やすやす出来ません。
どうにかこうにかでも生きていると、本人と会話をする術があります、
生きてる以上、良し悪し別に人生があり、どのようなサイアクと思える状態でもいくばくか、将来を動かす事は可能ですが、
死んだら重いモノでしかない。死人は人間ではない。例えば死にたい人は人間であることをやめたいのでしょうか。対話に疲れたのでしょうか。自殺をした肉親がいる時、自殺の真意は本人しか知りえません。考えても親族相談しあってても、想像でしか在りません。ともかくも、なんで死んだのか、勝手さに腹立たしくもあり、やるせなくもあり。・・・でも、どうにも死んだ後では助けてやる事は出来ない。葬儀で流す涙は何も出来なかった、死を食い止めることができなかった、悔し涙ともいえるでしょうか。このような思いをさせる、不可抗力もあるでしょうが、死ぬ方は結局勝手なものともいえるか。
人間はやり取り、コミュニケーションできるゆえ、人として生きていく事ができる。
死んでしまっては、どうやっても物言わぬモノ。対話しないという事は、どんなに立派な人であっても、対話をする赤子、今時のロボットやペットにも劣るといえるかもしれない。
どうにもならない、終わりです。
そういったいろいろを見てきて、ichideさんは「自分も死んだら終わりなんだなぁ」と実感できたのでしょうか?
どうも、残る側からの記述しかないのが気になります。
http://www.hatena.ne.jp/list?op=1&so=0&st=t&c=y
人力検索はてな - 生活
ダミーですいません。
アルフィエリの名言を引用します。
「死のうとするよりも、生きようとすることの方が、たいていは、ずっと勇気を必要とする試みなのである。」
死ぬことは、ものすごく簡単です。例えば、リストカットという行動は、本心では、助けを求めているのであって、本当に自殺を考えれば、あのような時間のかかる方法はとりません。
生き続けることの方が、余程尊いのであり、自分から死ぬヤツは、最初から生まれてきた意味をわかっていない、と言うことです。
不本意に、命を落とす人が、限りなく生きたいと思って最後まで奮闘しても、結果的に死んでしまうことが有るのに、死んでしまえば、ほとんどの場合、「死者」としか扱われません。こうした、報われない人が世界中に山ほどいます。死んだら、人間も地球上のあらゆる生物と同じになるのです。墓も遺書も、残された人のために有るのであって、本人は、その意味を知ることはありません。生きていることの「奇跡」がわからない人こそ、「死んでしまえ」と言うことですね。
「死んだら、人間も地球上のあらゆる生物と同じになるのです」
ここが意味わからなかったです。なんとなく、自然に還りたい、と思いました。
で。生きることの大事さをたずねているのではなく、死んだら終わりということを説明して、と言ってます。
この2つは、まったく違うことです。
ごく一部のターゲットにはクリティカルヒットだと思いますが…。
うちの猫も、いつかそうなるのですね。
①死んだら終わり、実にそうですが、死ぬ前にも終わってしまっているケースが多いですね。
②人間は喜びを実現するために生きているわけですから、趣味が出来なくなりただ日々を動いているだけでは、真の意味で喜びを実現できているとはいえないでしょう。
③益して、死んでしまったらもう喜びを実現することは不可能であることから、終わりといえるでしょう。
この短い回答中で3度も「喜びを実現」というキーワードが出てきてます。
なんだろう喜びを実現て。
なにかを、ただ喜ぶ。「喜びを実現」できて、また喜ぶ。ひとつぶで2度お喜び?
それはともかく、マル2の文は「ですから」でつながるのはおかしいと思うのですが。
検索デスク SearchDesk スタートページ
URLはダミーです。
2つ考えてみました。
その1は、ちょっと参考リンクの最初のお話とかぶった感があります…スミマセン。
その2は、“容赦ない感じ”ってのをちょっと違う方向に強調してみました。
その1
死ぬと言うことは、透明で触れることのできない石ころになるようなものです。
例えば、ここに透明で触れることのできない石ころがあるとしますね。
石ころなので、動くこともできないし、意思も持ちません。
透明で触れることができないので、誰かが気づくこともありません。
もちろん、何の役にも立てませんし、何の役にも立ちません。
えっ?透明で触れることのできない石ころなんて存在しないよって?
そうですね。でもそれこそがまさに死ぬと言うことなんです。
その2
まず、死んだら火葬されるか、土葬されるわな?
火葬の場合、アンタは1000℃位でもって、ケシズミになるまで焼かれるわけだ。
土葬の場合、土に埋められて、ドロドロに腐っていって、蛆虫とかに喰われていくわけだ。
いくら魂だって言ったって、そんな熱さに耐えられるはずないだろ?
虫に喰われていって正気でいられるはず無いだろ?
死んだらそれでお終いだ!
お終いになってくんなきゃ困るだろうが!!
質問に即した回答をありがとうございます。
よりよいものを作るためでも、その他のためでも、参考にしていただくのはまったく構いません。
その2は、うーん、なんで「困る」んでしょう?
料理の仕方によってはこの路線も面白いとは思います。
http://kuroneko22.cool.ne.jp/despair.htm
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URLはダミーです。先の回答の補足をします。
先の例は葬儀に真摯に対峙すると死んだら何も出来ない、どうにもならない事に気がつく問い言う事、私自身体験からの気付きであり、葬儀の役割りとは、そのような気付きを与え、生の価値を再発見させる事でないかと考えます。ゆえに労を割いて弔う意味が出てくる。
人間が人間らしくあるためには、何がしかの対話がどこかでなされなければ、生きていくことはできません。生命活動には衣食住全ての面で、たった一人で作り出すのは困難であり、仮に無人島などで出来たとしても、そこには強靭な意志が希望を見出す強い生命意思があっての事です。
つまり全ての生活の大半がやり取りをする事によってなされる。
死んでしまうと人間として生きる糧(肉体と心があって人間である)の対話ができなくなり、ただの肉塊となる。肉塊は冷めて自身ですら存在を保持していく事ができず、異臭を放ち腐敗するのみになる。
やり取りを否定する事が死を意味する例としては、アウシュビッツなどの絶滅収容所(絶滅収容所とは、種を抹殺する為の施設、地球上での存在自体を否定する為の)で、家族や友人などはちりじりにされる、名前を剥奪され、便宜上の整理番号で呼ばれ、生命活動を不可能と思える位の腐った食事を奪い合いながら肉体の疲労を煽る強制労働と拷問と極限の寒さと不衛生な環境に合う、飢えるあまり死体を食うという極限状態になったとき、それでもごく少数のどうにか生きる人がおり、死ぬ人の差はなんであったか、生きる人は例え孤独であっても対話を作り出す努力をし、食事をとることよりも分け合い、分かち合うという事をしていた。という事だそうです。対話をしかけ施しをする事は食事をとるよりも本人も生かすことになるという例です。
つまり、人間である為には生きるとは対話をするチャンスがある事であり、死体=モノになると、対話ができない=肉体はおろかそれより必要な心の充足のチャンスができないということになります。心の充足とは感情を揺さぶる事であり、不快感やネガティブな感情も治癒の為に必要で、感情がないよりはマシであり、心の闇を糧にして何らかの行動をおこすきっかけになる。死は感情も消し去るので、腐るモノでしかなくなった死体はもはや嫌悪するものでしかなくなるという事です。
生きていくためには対話が必須、という考え方。
ひとりでは生きていけないのに、心はひとりにひとつ与えられているのが、人間の面白さですね。
http://d.hatena.ne.jp/michiaki/20051026#1130337796
「で、みちアキはどうするの?」
目が無ければ何も見えません
耳が無ければ何も聞こえません
体が無ければ何にも触れることはできません
もちろん、頭が無ければ何も考えることはできません
どうですか?あなたが死んだ後に何か出来ることはありますか?
死ぬと何も出来なくなります。
これが「終わる」ということなんです。
駄文失礼
言葉にすると当たり前になって、「当たり前じゃん」と素通りされてしまう。
そこをちゃんと考えてもらうのは、とても難しいことです。
http://www.hatena.ne.jp/1130340247#ダミー:detail]
どーも。前の質問にも答えさせていただいた者です。これからの回答はまったく関係ない例を持ってきて書かせていただきますが、お目通しお願いしますね。
僕はよく考えるんですけど「タイムストッパー」という物が作られたらどうなるんだろうか?って……
それは名前の通り、時間を止める機械なんだけども、使用者本人だけがその法則から逃れえることが出来るんだろうか? おそらく使用者もろともに世界の時間を止めてしまうシロモノになると予想します。
使用した時点でこの世界の時間は止まり、それから先の世界は存在しなくなる。しかし世界の大半の人は時間が止まったということを認識する暇もなく活動を(時間により)停止させられる。
これは死にも当てはまることじゃないのか。
死ねばその人の時間軸には死のフラグ以降の世界は存在しなくなる。死後の世界……という言葉は間違いで、死んだら死んだ瞬間に世界が止まるんです。でその事に死んだ本人は気が付かない。
「ああ時が止まっているなぁ」という感慨にふけることも出来ず、死んだ後の世界の動向に目を向ける事も出来ない。
ゆえに死とは「思考の停止」を意味する。
といった感じのことを考えました。
(的外れな回答でしたら申し訳ないです。)
いえー、的外れじゃないです。ちゃんと考えられてるなぁ、と思いました。
時間を止める、というのはいい発想だと思います。人は「現在」を、一瞬あとの時点から、つまり「過去」としてしか認識できないんですよね。
だから、時間が止まっても気づかないし、「死の瞬間」に「死んだ」ことに気づくこともない。
これは眠るときも同じですよね。
urlはダミー。
心臓が止まり、脳の血流が止まる。
私の中の幻想の世界は無になる。
そこに立っていた私も同時に無にのみ込まれる。
死んだ世界に立つことはできない。
その幻想をつくりだす私は死んでいるから。
残念ながら、ふつーだー、としか感じられません。ごめんなさい。
それは、語れないはずなのです。ほんとは。
そこを無理に語ろうとするのだから、ゴツゴツといろいろぶつかるはずなのです。
なのに、水が流れるようにスーッと語られてしまっています。
頭の中では、ちゃんと理解してらっしゃるのかもしれません。でも言葉にするのは難しいですね。
お前さんが、この世に何も残さないなら誰もお前さんの事を思い出さないし、それで終わり。
また、こういう事を問う事自体、自分勝手な考え方で、余程丁寧な死に方をしない限りは、お前さんは誰かに迷惑を掛けるわけだよ。こんな問いみたいにね。だからあっさりと、そういう問いの答えを求めるなら、最初から問わない。それが終わりって事だろう。
この質問に回答するために、わざわざIDを取得してくださったんでしょうか。(日記に記事なし、カウンタ数3でしたので)
それはそれは、ご迷惑をお掛けしました。
http://www.athome.co.jp/academy/biology/bio03.html
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死ぬということは生きてはいないのです。
生きていないものは生命としての活動はしません。
生きているのになんらかの生命活動がないことも
死んでいるのになんらかの生命活動があることもありません。
死んだら生命活動は終わりです。
私たちの生きている世界は
生きているものたちが活動し変えていく(大きなことも小さなことも)、
生きているものたちの世界です。
死んでいるものたちが活動し変えていく(大きなことも小さなことも)、
死んでいるものたちの世界ではありません。
それは死んだら終わりということだと思います。
「死んでいるものたちが活動し変えていく」?
「生命活動は終わり」ですが、死んでいるものたちのなんらかの活動がある世界があるのでしょうか。
「終わりではない」という考え方の残滓があるように思います。
http://www.hatena.ne.jp/1130340247
人力検索はてな - 「死んだら終わり」ということを、容赦ない感じで説明してください。 参考リンク : http://d.hatena.ne.jp/michiaki/20051026#1130337796 「死んだら終わり」ではない、と..
「死んだら終わり」であることをきっちり証明することは難しいと思われますが、妥当性が高いということは言えましょう。
参考リンクに書かれた内容からすると「死んだら終わり」=「死後の世界や生まれ変わりがない」ということを示せばよろしいと捉えた上で、死後の世界が存在する場合、存在しない場合どちらが妥当性があるかを検討してみたいと思います。
そもそも何を以って生命の誕生とするかは難しいところですが、生まれ変わりは簡単に否定できましょう。生まれ変わるには生まれ変わる前のなにものかが必要なわけですが、地球誕生以前には当然生物は存在しないわけです。また、宇宙の起源は有限の時間の中で誕生したとされているわけなので細胞生物以外の生命形態があると仮定したとしても宇宙誕生以前には生存し得ないわけですから、生まれ変わりにおける根源的な存在を規定できないといえましょう。
また、死後の世界の存在証明が現時点では可能であるとも不可能であるともわかりませんが、死後の世界が存在すると仮定した場合、死後の世界には、これまでに生じた死者の情報を何らかの形で保存する必要があると考えられます。情報が0では存在してないことと等しいですから。ところがこの膨大な情報を何の媒体もなしに保存しようとするのは当然のように無理があるだろうと考えます。この情報の保存について個人的見解であって証明できませんし、可能であるとする人もおられるかもしれません。つまり、死後の世界が存在するとした場合、維持コストが膨大であるため、存在も否定もできない命題であるとするならば、存在しないとしたほうが妥当性が高いであろうという結論です。
丁寧に考察していただいてありがとうございます。
ふむふむ、と納得して読めましたが、今回の質問の要請からは、すみませんがちょっと外れてます。
落としたコップが割れるようなわかりやすさで、それを伝えていただきたいのです。
tousenkyoさんの回答とややかぶりますが。
インド仏教での唯識の思想だと思います。すっごく手っ取り早く言うなら「世の中には自分の意識しかない」ということだと思います。それは死んだら終わっちゃいますよね。宗教家・哲学者の類ではないので正しいかはわかりませんが映画Matrixの世界観も唯識の思想を源流としていると思います。
「死んだら終わり」という言葉を死後の世界や輪廻の思想を否定する意味で用いているのであれば確かに、神や来世の思想は生者への希望として与えられるものでしかなく、その合理性を証明できない(むしろ存在しないという仮説の方がまだ合理的である)ことを考えれば『「死んだら終わり」なわけないよ!』という人の意見は生きて行く人間にとっては非常にポジティブで心地よく聞こえますが客観的に捉えてみるとまったく理にかなっていないと思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%A...
セントラルドグマ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E7%89%A9
生物 - Wikipedia
あまり感情に訴える(思わず共感したくなる)ようなことはいえていないかもしれませんが、もうひとつ。高校レベルでも生物学を学んだ人間であれば生命の定義をある程度論じられると思います。私もすべてを網羅することはできませんが、
①細胞からなり、外界と体内を区別している。(自他に物理的な差異があるということ)
②エネルギーを用い代謝を行う(ん~、活動するってこと?石とかは①を満たしますが生物ではないですし…)
③セントラルドグマに従う(詳しくはURLで。自己複製を行うということだと思います。たとえ子供を残さない人でも細胞レベルでは繁栄する意思を持っているはずです)
これらは「生きるとはどういうことか」ですね、ここまで回答になってなくてすみません。死んだらどうなるか。
①②③は全部駄目になっちゃう(当分の間代謝は続きそうですが)感じですから、自他の境界がなくなるということで、少なくとも「私」として存在してるとはいえなくなると思います。「私」が「私」でいるのはあくまで生きている間だけだと思います。そう考えるとやはり「死後の私はどうなるんだろう」という想像はおかしいですね。
結論:死んだら私は終わります。でも世界とか、何か高次なものは残るのかもしれないと思います。
上の方へのコメント同様。
仰る内容は興味深いので、個人的には考えさせていただきます。
“何か高次なものは残るのかもしれない”
死についてどういう考え方を持っているかはとりあえずおいといて、
ここでは「死んだら終わり」という立場で回答していただければ、と思います。
人間は死ぬために生きてるんじゃない。
生きるために生きている。
知恵をつけて感情を覚えて、力をつけて、名誉を求めて。
死んだ時、その人の知識・感情、全てなくなる。
考えることも動くこともできなくなる。
あとは燃やされて墓に入れられて終わり。
だから死んだら終わり。
その人に関する建物、他の人の記憶には生き続けても、
その人自体はもう終わりなのだ。
12番や14番の方あたりとおんなじ感じ、ですね。
このくらいのことは、誰もが幾度も考えたことはあるでしょう。
で、もう固定化して、壁ができてしまっている。
そこを打ち破るには、「当たり前」でない事を言うか、
もし正攻法でいくなら、それなりのパワーが必要と思います。
http://www.hatena.ne.jp/1078319923
人力検索はてな - 輪廻転生はあり得るのでしょうか?可能か不可能かと、その理由(科学的・医学的など現実的なもの)を教えてください。URLはダミーでもかまいません。..
「輪廻転生」という考察があるが、それは人間が死んだら終わり、ということを信じたくないからであって、それはすなわち「死んだらおしまい」ということだと私は解釈しています。
誰かの生まれ変わりだとか、子孫に自分の一部が宿るとか、そんなことは一切ありません。
親、兄弟やこどもを見てもわかるように、かれらは生まれ変わりなどでは決してないし、同じDNAを持っているとて、それがなんなんでしょう、他人にはかわりないのです。
クローン開発がすすんで、夫とこんな会話をしたことがあります。
「クローンが生き続けること、すなわちそれは永遠の命である」と彼は言うんですけど、なんで?
なんでそうなるの?
こいつはハリウッド映画に侵されていると思いました。
スクリーンのなかでは、死んだはずの、悪がクローンと化して、何度も何度も生き返ってくるのです。
これが「死なない」という概念なら「輪廻転生」をも信じて、死をおそれはしないでしょう。
だけど、ここにいる自分は死んだらそれで終わり。
たとえば、もうひとりここに自分そっくりのクローンが現れて「死ね」といわれたら、
死ねるのか?クローンが生きていれば、死なないということになるのか?
死んだら、ここにいる自分は何もわからないし、聞こえない、感じないし、無。
もしかして、私の死を悲しんでいるひとが仮にいて、その悲しさのあまり私のクローンをつくりあげ愛しむとしたら、それこそ本当にこの私自身は「無」ということだ。「終わり」ということだ。それが「私」を忘れないでくれて「嬉しい」ことなのか、私は死んでいるのに、それを気づかない、いや気づいているのに、「私」ではない「私」がいるために悲しまないでいることを「悲しい」と思うのか、もはやそんな感情さえもてないが「死ぬ」こと。
痛くもないし、辛くもない、記憶も財産もなんにもない、「誰かの心のなかに永遠に生き続ける」ということに臨みをたくして、救われようとするけど、そんなことは何の意味ももたない。
決して安らかでもない。誰かの記憶のなかで、わずかのあいだ生き続けるとしても、それは小説やマンガやアニメのなかの想像の人物とかわりはない。彼らに意志はないし存在しないということを、彼らは気づかない。この世に存在は確かにあったという、置き土産をして終わるだけ。生まれる前と違うのは、ただそれだけです。確かに「生まれた」という事実があるだけ。だから「終わる」のです。この世に存在しないひととの差はただそれだけです。
ああ、ちゃんと理解されてる方の回答だー、と思いました。
(回答自体は、も少しシンプルさが欲しいですが)
言わんとしていることが届いてることが感じられると、ホッとします。
「終わり」とは、そう、そういうことですよね。
「こいつ」呼ばわり。わかってない!が感じられて可笑しかったです。
そういったものは自身の中で命題にするか早々に思考を巡らせ結論を出す方向に向うべきだと思います。
容赦なくということなので本当にそういったものが必要であるなら探せば見つかります。
文学的にみせるというなら回答に質問された当初からの姿勢を貫く事が必要だと思います。一貫した対応を行ってもらいたいです。
世の中では実際に様々な事件が起こっています。
http://www.hatena.ne.jp/1130331723
人力検索はてな - 美咲天使さん(有栖川雅さん)の生存情報を求む。 また被害者不詳(有栖川雅さん)で刑事告訴できるかどうか。(極論でも構いません)..
はてな内でも動きがありますね。
「死んだら終わり」という切羽詰った状態を体感されたいなら自ら赴いてご覧頂きたいです。
そしてこういったものを見た感想をお聞きしたいです。
kazkichikiさんがフォーカスしているものとわたしが今回質問しているものとは違います。
ご意見は承りました(対応する、という意味ではありません)。
http://www.newton-doctor.com/saisentan/saisentan05a.html
加速する医療テクノロジー−最先端医療の世界−「ニュートンドクター」全国医療機関・病医院・歯科医院情報
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「死んでいるものたちが活動し変えていく」?
「生命活動は終わり」ですが、死んでいるものたちのなんらかの活動がある世界があるのでしょうか。
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死んでいるものたちが活動し変えていく(大きなことも小さなことも)、
死んでいるものたちの世界ではありません。
もしもあるとするならば、生きているものの
想像や願いの中にだけだと思います。
(私は全く詳しくないですが、魂の存在だとか、輪廻転生だとか)
例えば私が死んだとしても、もしかしたら家族や友人は
私の存在を感じ続けるなんてことがあるかも知れません。
でも、それは私の存在の想像をしているだけです。
私がそこに存在しているわけではありません。
私自身は死んでいるのですから、想像されようが何をされようが
私にとってはもう何も無いです。とにかく全部無いです。
何かが有るのは生きている人たちにとってだけです。
これは死んだら終わりということではないのでしょうか。
「例えば私が死んだとしても、もしかしたら家族や友人は
私の存在を感じ続けるなんてことがあるかも知れません」
ここが、「容赦なくない」感じです。
わたしが死んだ後も「わたしのいない世界」として世界が継続しているかのような語り。
たしかに「誰か」が死んでも「あなた」の世界は継続するでしょうけれど
「死んだら終わり」なら、「あなた」が死んだら「あなた」の世界はそこで終わるのです。
「何かが有るのは生きている人たちにとってだけです」というような言葉は
そこでは出てきようがない、はず、と思います。
こんにちは
死ぬ・・単なる電池が切れるのと同じと私は考えます。ただ電池交換はされませんが。。
宗教的な生まれ変わり&天国的なお話はもしかしたら実在するのかもしれませんが、向こうに行ってらっしゃる方と、こちらがコンタクト取れない環境にある現在では実質「無い」と言うことになります。
昨今自殺する方がいらっしゃいますが 自分が死ぬと「やっと死ねた」と言う満足感が得られないと思うので自殺はいかがなものなんでしょう?今後の未来を拒否する意味では成就されますが(死んで存在しなくなるので)「今後の未来を拒否できた」感は味わえないでしょう。そんなのに自殺って良い物なのかな?
人間は死んで肉となり ゴミになり 人の思い出になり そのうち思い出も薄くなり 社会は進んでいきます。
生まれ変わりは証明出来ないから信じられないのではなく
人は死んで生まれ変わっても前世の記憶がなければそれは実質生まれ変わりでは無いですよね。人間感覚の生き物だと思うので。
死んだら終わりです 死後の世界なんてそんなシステムがあるようなたいそうな物なんでしょうか 人間や生き物は?
こんなんでお答えになってるでしょうか?
私の考えはこんなのです。
こんにちは。
「人は死んで生まれ変わっても前世の記憶がなければそれは実質生まれ変わりでは無いですよね」
わたしはそうは考えませんが、うまく説明できる実力がないので、いまのところ反論できません。
でも「死か、回復する見込みのない完全な記憶喪失か、どちらか選べ」と言われたら、どっちがいいですか?
記憶が「私」ではない、とわたしは考えています。
血液が通っている間は自分の形を保て、止まってしまえばいつか腐り(一般的にはその前に焼くな)自分の形を構成していた物ははまた別の何かを構成することになる。
色々なパーツを世界から借りている状態を『自分は生きている』と思い込んでいるだけで、無くなるや失うではなく返すだけだと思います。
そして生きている間は意識的に世界に干渉できる、
死ねばそれができない、
望みの有る人にとってそれは『死んだら終り』に等しいと思います。
うーん……。
何回も読み直したんですがツッコミ所がない!ので、パス1とさせてください。
http://www.gyao.jp/newsbiz/mikitani/
パソコンテレビ「GyaO」
URLは三木谷社長です。
「死」という概念はその当事者の為のものでなくて、残った人々の為のものです。
死んだ人は「死んだ」ことを認識する為の機能が完全に停止してしまいますから、正直どーでもいいんです。
「あーそー言えばあの人どうしたっけ?」
「去年死んだよ」
「あ、そう。」
という会話に必要だから「死」という言葉が作られました。
当事者にとっての「死」とは、端的に「虚無」だとしか言いようが無い。
突然すべてのスイッチが切れて、自分を認識してくれるすべての存在を認識することが不可能になると同時に、その事象自体を認識することも不可能になるので、まさに「絶無」の状態。
そういう意味では、ある種の生物にとって、「死は恐ろしいものではない」と言えるでしょう。
納得。論理的な人はこれで説得されうると思います。
質問者は「ある種の生物」に属しています。
http://www.chizumaru.com/index.aspx
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URLはダミーです。
いつが始まりなのか考えてみる。
この世に産声を上げた時?違うと思います。自我が形成された時点ではないでしょうか。
では、終わりは?自我が崩壊もしくは、無くなった時では。
僕は自我が崩壊した時も含めて「死ぬ」と考えています。そして、終わりです。後は宇宙の始まる前の世界と同じで考えられません、というか考えません。
余談ですが、輪廻転生の考えは、知恵を持った猿が未来に必ず訪れる「死」を克服するための欺瞞だと考えられています。
人間の心は、「死」の恐怖に耐えられないのでしょう。
なるほど。自我の形成される前/崩壊した後、なんて、宇宙の始まる前の世界を考えるのに等しい、と。
例えとして、とてもよくわかりました。
端的な無としての死を怖がる人は多いけれど、ならば「生まれる前」も同じように怖いはずじゃないのかな、と思います。
死んだ後と生まれる前は質的に変わらない。「もし生まれなかったら!」って、怖がらないのかな。
死後を怖がるのだって結局想像に過ぎないわけですし。
http://www.sgtpepper.net/garden/diary/?date=20041024
Gardener's diary@Yale(2004-10-24)
たまに訪れるささやかな幸せも
生きることに葛藤してる苦しみも
死んだら終わり
人生系の「一日一言」みたいな本に、1ページ使って書いてありそうですね。
【インフォシーク】Infoseek : 楽天が運営するポータルサイト
urlはダミーです。
死の前提として、生があります。
生とは何でしょうか?この世に命を受けてから生がはじまるのではありません。親や友人、恋人など周りの人間を通じて自己を確立し自分の世界を形成していく過程とその継続こそが生きているということです。
肉体的な自分が継続不可能になり、自分の世界が認識することができなくなることこそが死です。もう貴方は大好きな人と抱き合ったり、お酒を飲んで羽目をはずし翌日後悔することもありません。何回も繰り返し読んだお気に入りの本をまた手に取り自分の世界に没頭することも、月曜日の朝に絶望的な気持ちで大嫌いな上司の待つ会社へと行くこともありません。
貴方は新たな喜びを得ることも、いつも通りの苦しみに悩まされることもなくなります。
貴方の最期がどのような終わり方になるのかはわたしには分かりません。
しかし貴方は最期、死の寸前に気づかされるでしょう。自分の世界などもともと幻のようなものだったと。
死んだら終わりです。しかし、もともとたいした始まりじゃなかったのです。
んー。最後の「たいした始まりじゃなかった」が、その前の連なりからしてちょっと唐突ですね。
でも、「貴方」が質問者を指しているとしたら、そうですねーと言っていいかも知れません。
http://www.asahi-net.or.jp/~kz3t-szk/wdy_lov.htm
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「死んだらセックスできないじゃん」
……という人の理想の死に方は、やはり腹上死なんでしょうか。
財団法人 日本ダム協会
URLはダミーです。
死ぬ=終わり、です。
今まで築き上げてきたもの全てが、あるときぷつっと途切れる。
若かろうが、高齢だろうが、関係ない。
死は人を選ばない。誕生が必然の元に成り立つ偶然の連続であるように。全ての人に平等に訪れる。
死者はやがて美化され、過去形で語られるのみ。当然、その人は途切れてしまっており、そこからは続かないのだから。
死に伴う負のイメージはおおよそ、人の死を見た他人が感じる負の感情から成っている。
死んだ当人がどう思っているかなんてわかり得ない。
何も訊けないから、仕方なしに勝手に考えが膨らんでしまう。「まだ若いのに」とか、「無念だったろうに」だとか。
残された人はあんまりに悲し過ぎたり、理不尽だったりするから色々考えが巡るのだ。他人の気持ちなんて結局、想像するしかない訳で。
自分の死について考えてみると、案外他人の死よりもどうでもよい気がする。
死んでしまったらわかり得ないのだし。あの引き出し開けられたら困るな、程度(笑)。
死者は秘密を暴かれようと、勝手に気持ちを代弁されようと、抗えない。
自分は自分の死そのものを感じることがたった一回しかできない。
「死ぬのってすごい!」とか、「案外フツーじゃん」だとか、フィードバックができないから、人は死への過程や、来世などを想像して宗教にすがるのかもしれない。
死そのものに意味を見出せるのは周りの人間で。
自分は途切れたら、そこで終わり。
終わりに向かって生きていく、というのは空しい考えかもしれないが。
以上、すごく偏った見解だったらごめんなさい。
いえ。回答群を見る限り特に偏ってない、と思います。
自分は、終わる。でも人類も地球もいつか終わる。宇宙も、やがて終わる。
「それでも、生きていたという事実は残る」と言ってみるのも、別にいいんですけど。
ツッコミ所がない!ので、パス2でお願いします。
Yahoo! JAPAN
最近よく考えることがあります。
「世界の端は本当は何があるんだろうか」
考えるまでもなく地球は球体なので、ひたすらまっすぐ進んでいくとそのうち元の位置に戻ってきます。自分で確かめたことはないですが、多分そうなんだろうと思います。
ただ、本当にそれは「元いた世界」なんだろうか。
もしかしたら出発する前にいた世界と今の世界は全く別物なのではないだろうか。となると、「元いた世界」はいつのまにかなくなってしまい、「今自分のいる世界」がいつのまにか誕生したということになります。要するに、「元いた世界」の自分は突然姿を消し、「今自分のいる世界」に自分が突然現れたということです。
この「いつのまにかなくなってしまう」という感覚が「死」であると思います。上記の通り、いつの時点で「今自分のいる世界」に自分が現れたのかというのは意識できませんし、「元居た世界」からいつ姿を消したのかも意識できません。上記の例は直接は今回のテーマと関係ありませんが、ここでいう「世界」と「自分」を入れ替えて考えてみると、「死んだら終わり」ということになるのではないかなと思いました。
半分的外れのような気もします。今回の回答ポイントはけっこうです。
ちょっと、んー、自分にはしっくりこなかった感じですが、フィットする方もいらっしゃるのでしょう。
なんとなく、目を閉じてその場で1回まわってみるのでも良い気がします。
人力検索はてな
URLはダミーです。
我々の行動にはすべて目的があります。人間が死んだらどうなるかは誰にも解りません。解らない世界では目的の持ちようがありません。目的が無いので行動しようがありません。したがって我々の行動は自分が生きているという前提がいります。だから、死んだら終わりです。
とりあえず、「したがって」「だから」のつながりがとてもヘンな気がします。
“目的が無いので行動しようがありません”
いえ、行動しようがないのは死んでるからではないでしょうか。
地球人ネットワークを創るアルク:スペースアルク
URLはダミーです。2回目、よろしくお願い致します。
ちなみに私は、他人に説明して理解してもらえること、わかりやすいことを前提として考えていましたが、それでいいんですよね??
そうすると、どうしても例え話しか思いつきませんでした…いいんだか悪いんだかわかりませんが。
また2つ考えてみました。
その3は、図を使ってみました。死後の世界錯覚説。
その4は、算数を使ってみました。個人的にはゼロ除算ってかなり雰囲気もっているような気がするんですけど、ずれてるかも…。
その3
生まれた日を始点として、途中に現在点があって、終点に死ぬ日があるとし、これらは一直線上にあるとします。
生まれた日、そして現在は、具体的な日時を指すことが出来ますが、死ぬ日はいつになるのかわかりません。未定です。
ですので、生まれた日~現在は実線、現在~死ぬ日は点線でひきましょう。
実線部は過去、点線部は未来になりますね。
さて、死ぬ日はいつなのかわかりませんので、死ぬ日の点は、まだ固定できませんね。
現在のすぐ後に来るかもしれないし、もっとずうっと先かもしれません。
といいながら前後に動かしていると…ほら、死ぬ日の後ろにも点線が見えてきませんか?
あたかも死んだ後の先にも何かがあるような…。
でも、そう、それは錯覚ですよね。
死ぬ日は、死ぬその瞬間までわかりません…あなたご自身はそれを認識できないでしょうけどね。
ですから、点線はいつまでも現在点のうしろにひかれている、まるで死んだ後にもひかれているように錯覚してしまうのです。
おわかりだと思いますが、死ぬ日が固定されれば、その後に見える点線は無くなりますね。
死ぬ日は終点ですので、死んだら、その先に線はありませんね。
その4
例えるなら、ゼロの除算
分母は残りの寿命。
分子は全ての生命活動。
それがあなた。(あなた=全生命活動÷残りの寿命)
残りの寿命がゼロになった瞬間、あなたは(あなたの式は)存在しなくなる。ゼロですらない。
その3は雰囲気伝わりますね。線は、ないんですよね。ぷつりと途切れる。
その4は……なんか“∞”に近づいちゃって、違う領域に突入しそうな気配もなきにしもあらず。
Yahoo! JAPAN
死んだ人は動きますか?
死んだ人は話しますか?
死んだ人はもう何もしませんね。
ほっておけば腐っていきますね。
そう、死んだら終わりなのです。
あらためて「死んだら終わり」ということを、
人に伝えることの困難さを感じました。
http://www.infoseek.co.jp/http://www.google.co.jp/services/
【インフォシーク】Infoseek : 楽天が運営するポータルサイト
URLはダミーです。
生きていて、寝ている間でさえ何もしてないんだから、死んだら終わりなんじゃないですかね?
まあ寝ていても酸素を吸い込んで二酸化炭素を出すくらいのことはするから、死ぬってことはマジで終わりじゃないですか?
寝ている間にぽっくり逝くのがいいとか言いますけど
夢とか見てたらどうなるんだろう。途中で上映中断でしょうか。
容赦ない感じですか・・・視点を変えてみました。
ドラクエなど死んだら終わりですよね。GAMEOVER。
人間はリセットもセーブも現状では出来ませんので終わりでいかがでしょうか?
ゲーム脳系コメンテーターみたいですね。
リセットやセーブができるようになったら、病気になったり戦争行ったりビルから飛んだりしたいです?
URLはダミーです。
そもそも自分が生きているという状態とは、
他人が自分の存在を認識するところから始まるのではないでしょうか。
またお互いに認識しあってはじめて生きているといえます。
そして死ぬということは、相互認識が不可能になるということだと思います。
片方は「死んだ」と理解しますが、死んだもう片方は相手の「死んだ」という認識を受け止めることができません。
大げさに言えば、その時点で生き残ったほうのひとつの生っていうのも終わるんじゃないかな、と思っています。
自分と他人が見えるものは全く違います。
そこで人々はその差異を共通の認識というものに置き換えて世界をつくってきました。
しかし、自分と他人という二者間の関係を考えた時、片方が死ぬとどうなるでしょうか。
たぶん世界は一方的なまなざしで見る空虚なものへと変化します。
実はそれはすでに、今までの世界と呼べるものではありません。
死者を自分の中で生かしておいたところで、それは思い込みでしか過ぎないです。
共有した世界は絶対に戻ってこないのですから。
だから、全然顔も知らないような人が死んだところで自分の周りの世界は何も変わらないわけです。
何も共有していないから。
また、自分以外誰もいない世界で死んだところで、そのことを認識する人は誰もいないため、
それは死んだことにはなりません。
これは始まっても終わってもいない状態だと思います。
容赦なくはないけれど、含蓄があり、深い感じ。
つまり、ある人の命というものは、その人自身ではなく、その人とつながりのある人たちによって
少しずつ所有されている、ということですか。
luvhandles.jp
URLはだみーです。
「思い出」は残るが自分は残らない。
たとえ魂が存在しようと
何一つ人に反論できない。
体の温もりもなく
誰かのそばに居るわけでもない。
寂しい世界に居て、
何もできなくなること。
だと思うです。
そうかも知れないですけど、それだと「終わってない」ですよね。
ところで、なぜ多くの人は死後を悪い方に考えたがるのでしょうね。
酒池肉林ウハウハ状態かもしれないのに。
http://store.yahoo.co.jp/engei/k2hj0122.html
Yahoo!�����åԥ��� - ŷ��ͭ�������Х����������ɥ��ꥸ�ʥ�900g����
私を含め全ての存在はただ変化し続けるだけ、
たとえばビッグバンも、何十億年か先にくるという救世主も
ただ見た目がかわっているだけ、始まりも終わりも無い。
しいていうならただ「在っているだけの世界」
もちろん無くなることがないから在るもなにもない。
そのまま「無」というのがいいかもしれないけど。
「人間」はしかし終わりや始まり、その他さまざまな概念がある、
それは、知識=様々な媒体の記録など、による幻想のようなもの、
「人間」という外観の中でのみ延々循環しているだけのもの、
その中でだけ私たちは生きていると言うことができる。
人間の始まりとはつまり、その幻想を見ること、
それは受精であったり出産であったり、学習であったり。
とにかくそこで私たちは、ただ「在っているだけの世界」から、
「人間」という外観を得る、そして間の中で幻想の概念を得る。
そして終わりとはつまり、その幻想から出ること。
間の中で五感と思考と知識を失い、幻想を見れなくなり、幻想の中の概念を失うこと
「人間」という外観を失い「在っているだけの世界」のほかの外観になること。
それは、ほぼ全ての人間の場合死によってもたらされる。
だから、死んだら終わり。。。
色即是空っぽいですね。
衆生は未だtomaluさんの言葉を理解し得ないと存じます。
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/sports/sumo/?1130753213
Yahoo!�˥塼��- ������
urlはダミーです。
この世は私を中心に回っているはずなので、私が死んでしまったら、この世は終わってしまうわけです。
これから楽しいことをしようとしてる人や、現在幸せな人も、私が死んで、この世が終わってしまうことによって、その幸せさや楽しみが終わってしまうわけです。
だからみんなのために私はとりあえずがんばっていきつづけないとならい。
自分が死んだらみんなの人生も終わってしまうんだろうから。
すばらしい。
一等賞を差し上げます。
小生、耳順のしがないただのオヤジです。
「死んだら終わり」だなんて、、、
そんなこと
この設問を読むまで一度たりとも考えたことはなかったです
たしかに、シューキョーだとかテツガクだとかで、「生」と「死」の問題(おいらにとっては問題でもなんでもないんですが)
を論じているものの、いまだに万人が納得するような回答は一切ないことからして、「生」と「死」なるものは、人それぞれの年齢性別出身地学歴宗教などの考えにもとづくものだと思うのであります。
さて、小生はいまのいままで「死んだら終わり」などと考えたことがなかったのは、実は自分が死んだ経験がないからです。
一度死んだことがあるなれば、死とはどういうものかを説明することができるんだけれども、なにせ死んだためしがない。
かといって、生まれた時の記憶などもないゆえに、小生にとって「生」だの「死」だの、身近なものとしてとらえることができないのです。
小生の座右の銘は次のようなものです
人はみな
喰って
寝て
垂れて
息してる
生きてるだけで
ありがたい
あ~ ありがたい ありがたい
生きてること すなわち
喰って 垂れて 寝て 息していることなんです
乞食から王様まで 人はみな 喰って垂れて寝て息してるんです。
乞食と王様の何が違うというのでしょうか
乞食の格好をした王様のいれば
王様の格好をした乞食もいるんです
人に限らず生きているものは
喰って垂れて寝て息してるのです
すなわち
生とは
喰って垂れて寝て息している状態
これができない状態が死ということになります
永遠の眠りなどと形容する者もあるだろうが
永遠の眠りなどあるはずもなく死んだら朽ち果ててしまうのでありただの元素の状態になってしまうだけ
その、どろどろになって腐ってとけてただの元素のあつまりになった物質が
喰ったり垂れたり寝たり息したりボウリングをやったり玉子焼きをくったりサウナで寝たりできないわけでカラオケで歌ったり忘年会でビンゴゲームをやったり温泉で温泉ガールを呼んでどんちゃんさわぎをしたりできないわけで
死んだらなんにもできなくなるわけで
そんなことを想像すると
とても悲しくなります
もちろん死んだら悲しいとかのキモチもないわけで
生きてるから、死んだことを想像してセンチメンタルになれるわけで
死んだらセンチメートルもセンチメンタルもありゃしない
すべてが終わるんです
「死んだら終わり」です
もっとも死んだ奴は終わりだとかも考えないわけですが
もう死ぬ、もう死ぬ、という3秒くらい前になって
「ほんとうに、これで良かったのか?」という疑問がポッカリ浮かんでしまい、
その答えも出ないうちに死ぬ、というのはどうでしょうね。
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それでは、ここいらで締めさせていただきたいと思います。
お付き合いありがとうございました。
「死んだら終わり」ということがほんとうにちゃんと解っている人は、遺書は書かないですね。
そして、たしかに、死んだら終わりであるようです。