http://nihon.matsu.net/nf_folder/nf_koramu/nf_hitodenasi.html
院長のコラム/「人でなし」に生きる権利は必要か
結論:そんな人間は、社会の中でのうのうと存在していてはいけません。そんな人間に、社会の中での居場所はありません。
http://www.arsvi.com/1990/990600ms.htm
�X���i�u���Q���_�\�m�I���Q�҂̐l�ԂƂ��Ă̑������l�����v
人は人です。何が欠けていても同じです。
質問の「重要なもの」が何を意味するのか分かりませんが、たとえば知的障害者などのハンディキャップを負っている人もある意味重要なものを欠いていますよね。しかしそれでもやはり人です。殺人などの重罪を犯した人も人ですし、人は人です。
http://d.hatena.ne.jp/bookstore/
かつてbookstoreの日記だったもの
欠けている人でも,その人を必要としてくれる人がいる以上,人です.人は互いに必要とされていますので.事実俺は欠けているけれど,必要としてくれる人がいるから生きていられる.
「一人になった人」についてはノーコメントでいいですか?
http://www.eda-jp.com/satsuki/2003/030416.html
基本的人権について 2003/04/16
人であるかないかは、
人から生まれた子であるかどうかによって決まります。
何が欠けていようと、他者と何が違おうと、
少なくとも人の親から生まれた者は、
生物学的にも社会的にも、
人であることは間違いないはずです。
そんな奴でも人は人だと思います。人は何度でも立ち直れるチャンスはあります。重要なものが欠けている人には、欠けていることを教えてあげればいいのです。もし聞いてくれなくても、その人が改心できるチャンスはいくらでもあります。とにかく人は死ぬまで人だと思います。
単刀直入に申しますと、
「はい、人です」、または、「いいえ、人でありません」と申し上げたくなります。
「人として重要なものが欠けている人は、人ですか?」というお尋ねは、
比喩論的に申し上げますと、
「人(人1)として重要なものが欠けている人(人2)は、人(人3)ですか?」
の「人1」「人2」「人3」は、
カテゴリーが異なっています。
そのようなカテゴリーが異なる関係は、
提喩的な関係と言ってもいいのではないかと思います。
たとえば、人を慰めたりしたりするときに用いる「君は君だよ」の最初の「君」と後の「君」が異なるようなものです。
ただし、「人として重要なものが欠けている」という言葉が問題となりましょう。
しかも、その修飾句が「人」に係っていることも、問題となります。
「人として重要なものが欠けている」という評言が、人として認められるか、認められないか、は、各人によって判断の分かれるところであります。
したがって、冒頭に申し上げましたように、比喩論的には、「はい、人です」「いいえ、人ではありません」というお答えになります。
ただ……
個人的な価値観を申し上げますと、
人として重要なものが欠けていましたら、
「人」ではないと申し上げることになりましょうか。
拙いお答えで、申し訳ありません。
前半の論法から、「はい、人2です」「いいえ、人1ではありません」という解釈でよろしいのでしょうか。
ただあなたの個人的な価値観としてなぜ「人3ではありません」と考えるのかが理解できないのが残念です。
http://d.hatena.ne.jp/jyouseki/
jyouseki(定跡)の日記
私は家に閉じこもっている時間が長いため「社交性」という大事なものが欠けています。
でも、人でないとは思っていません。
申し訳ありません。あなたが自分を人と思っているかどうかは訊ねていません。
「人として重要なものが欠けている人」という前提なら、「人」でしょうな。「人」って言っちゃっているんだから。
6.にある通り、人2である、という論法は理解できます。ただ、それは「人として重要なものが欠けているカエルは、人ですか?」の質問に対して「カエルです」と答えたに過ぎない。つまり「人として重要なものを備えたカエルは人ですか?」であろうと「カエルである」。では「chariot98さんは人ですか?」に対して「chariot98です」というのは回答になっているんでしょうか。
http://www.bbc.co.uk/radio4/index.shtml?logo
BBC - Radio 4 - Home
受け容れがたいですが、生物学上、人だと思います。
社会的には微妙ですが。
生物学上人であることは4.でわかりました。微妙という言葉は便利ですね。
�悤�����o�[�{���n�E�X��
人として重要なものはひとつではないでしょう。これは同意していただけると思います。
その中のひとつに、重要なものを獲得しうる可能性、という最後のひとつは死なない限り失わないでしょう。たとえ1%であっても。
それは人としての成長可能性であり、人生という機会です。
だから、人であるかぎり人だと思いますよ。逆に言えば、人として重要なものを全て揃えていると言う人(聖人君子)は少ないのではないでしょうか?
人として重要なものは一つではない。これは同意します。
申し訳ありませんが「だから」「逆に」の論理が理解できません。
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%BF%CD&kind=jn&...
国語辞典 英和辞典 和英辞典 - goo 辞書
まず生物学上、「人間」である生物を人でないと判断する基準は、時代、国によって大きく違います。
全ての時代と国については検証できませんので、現代の日本とさせていただきます。
結論としては「死刑になる罪を犯した者」以外は全て人だと思います。
世論にその罪を犯した場合は「人でない」という基準があるから、死刑が存続していると考えられます。
世論は人として重要なものを備えた人の意見でしょうか。
Yahoo! JAPAN
精神的な問題は、かならず治る可能性があります。今すさんでいてひどい人間でも、ふとしたきっかけで優しくなれたり殻をやぶったり、きづきが訪れる事もあります。
申し訳ありません。質問の回答になっていません。
Yahoo!
欠けている部分を補ったり、また同時(逆)に、欠けてなかった部分が欠けるような事の、その過程・状態・結果、全て含めて人間であるのではないでしょうか。
「重要なもの」の定義など出来ませんし、見方によっても、その程度はおろか内容までも全く変わってきます。(或いは見方次第で定義が真逆になることだってあるでしょう)
どんな人でも人だと思いますよ。
右のことは、考え方としてわかりやすく書いた場合での表現でしかありませんが、→欠けている部分を補っていくことそのものが人間の業のようなものではないでしょうか。
それと、上のやり取りを一通り拝見して、7番目のご回答者さんのご返答で「あなたが自分を人と思っているかどうかは訊ねていません」とありますが、あの回答は、おそらく個人的な感想が書かれていたのではなくて、「すなわち、そうではないと思う」と、言う結論を行間に含んだ回答なんじゃないかな、と思いましたよ。
月を思い浮かびました。新月-満月-新月の満ち欠けの過程・状態・結果を含めて全て月です。
それは月として重要なことが満ち欠けしているのでしょうか。見方によってはそうなのでしょうね。
過程・状態・結果・その他あなたが行間に含んだことを欠いた人は人ではないのでしょうか。
7.についてですが、
“「すなわち、そうではないと思う」と、言う結論」”なのですか?だとしたら申し訳ありませんが私にはさっぱり論理が分かりません。残念です。
一体どのような答えを求めているかが全く分かりません。
「人として重要なもの」は誰が決めるのでしょうか。あなたの主観的な価値判断ですか。それとも世論ですか。
一般的に「○○は△△か」という問いに答えるには「□□は△△ではない」という事例を考えるのが近道です。
オオカミに育てられた少女は人でしょうか。
脳死したら人でなくなるのでしょうか。
これらに対する答えは現在ありません。つまり何が人か、ということに対し社会的に合意ができていないということです。
従ってあなたの質問に対する回答は個人的な考えにしかなりえないということを踏まえた上でお読みください。
私の個人的な考えでは、生物学的なヒトが社会的な人であることには二つの条件が必要です。
一つは、自分は人であるという自覚、もう一つはそのヒトは人であるという他者の承認です。
従ってオオカミ少女はヒトですが人ではありません。
ただ脳死したヒトは、人であるという自覚があった主体と同一であると他者が承認している場合人であると思います。これは論理的には欠陥であり個人的な想いとしてあるものですから、この部分を論理の柱とするつもりはありません。
自己は他者との関係の中で自己を確立する、というのは有名な話であり、社会生活を営まない人はいない(寡聞にして知らない)ことから、人には他者が必要です。
「人として重要なもの」が上記の二つに含まれるのであればそれが欠ければ人ではなく、それ以外のものが欠けても人であると考えます。
どのようなこと答えを求めているのかわからないならば答えないのが筋であると思います。
ですが今までで一番興味深く読ませていただきました。ありがとうございました。
人というのがヒューマニズム(人間性)を含めたヒトの呼称なのかと思いました。
ヒトというのは生物としての呼称かと思いました。
なので人間性(重要なもの)の欠けた生物としてのヒトは、人間であって人とは呼べないのかと思いました。
しかし辞書をひいてみると、ヒトにも人間にも人柄、性質をあらわす、という記述があります。また、ヒューマニズムだけを「重要なもの」とするのも乱暴な気がします。しかしながら、辞書によると「人間」の項には説明文の項目は3つしかありません。「ヒト」だと14項目あります。
以上の事から、人をヒトとする認める場合において、14の項目の大半を満たすものを「人」、14の項目の大半を満たさないが、人間としてのしての3項目を満たすものは人ではなく人間と仮定します。
欠けている重要なものについては、人の主観により違いがあります。それが辞書中のヒトの項目に当てはまるものである場合、主体の主観において、それはヒトではないが、人間である、ということが言えるのではないかと思います。
また、欠けている重要なものが、辞書中の14項目に当てはまらない場合は、主体からの主観においても、ヒトと言うことができるのではないかと思います。
。。まあ、この場合、辞書を基準にした場合にしか仮定できないんですけどね。。
14の項目を決めたのは人でしょうか。
http://blog.livedoor.jp/pipopa2525/
つれづれ日記 〜本音の本音〜
例えどこのどんな部分が欠けていても、その人には、人である親がいるはずです。どんなに重要なものが欠けていても人ですよ(^^)
生物学的には人、という意味ですか。この考え方は今までよくありましたが、それは人の胎内から生まれてきた、ということとするなら試験管ベビーは人ではなく、人のゲノムをそろって持っている、ということなら各種染色体病患者は人ではなくなりますよね。人の精子と卵子の受精により発生する生物を人とするなら、ドリーは羊ではありませんよね。生物学的に人、という考え方もよく分からなくなってきます。
(13へのレスなどありがとうございます。オープンポイント+最低支払いポイントを送信しましたので、先ほどの回答と合わせて1回答としてください)
そうですね。イメージ的にもわかりやすい例(月)を出して下さいましたね。
ご質問で「欠けている」という表現がなされていましたので、私も便宜的に「欠けている」という言葉を使いましたが、実際は状態の変化に過ぎないと思います。
私の最終的な結論としては、そもそも欠けている人などいない、というところに行き着くと思います。つまり、欠けているのが人間だ、とも。(=欠けているのが人間なのだから、何かが欠けた人などいない)
世の中には心身共に様々な状態の人が居ますが、それは全て、人間であるゆえの状態変化に過ぎず、存在そのものを否定する理由にはならないのではないでしょうか。
Mementomoriさんご自身について考えてみてください、どんな状況に陥ろうとも、またたとえどんな罪を犯そうとも(←変な例でごめんなさい)、精神が壊れようとも腐ろうとも、おそらく、Mementomoriさんはやはり人そのものだと思いますよ。
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先ほどの7さんに関してや、また他の方々とのやり取りの中でも、ところどころ、所感などありましたが、他人様のご意見も絡むので、今回は端折りますね。
だとすると欠けている状態、は人それぞれ違いますよね。それこそいろいろな月齢の月があるように。では太陽の光を欠いた月も月でしょうか。月という衛星はそこにある、という意味ではありません。
私は人そのものですか、初めて聞きました。ありがとうございます。
所感があればダイアリーでトラバ、いわし、などで聞かせていただければ幸いだと思います。
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URLはダミーですいません。人というのは、自然の中から生まれてきたものであり、人である以上、重要なものが欠けている、という事はありません。「重要なもの」を何を意味しているのかは分かりませんが、「他人」から、「人」として認められていれば、それは「人」です。
人を人として認める他人は人でしょうか。
生物学上は「ヒト」であることは、納得されていることと思います。
おっしゃっている「重要なもの」というのがこの場合病理的なものではなく、あくまで性格的なもの、例えば他者への共感性が欠けているヒト(例としては娯楽で人や動物を殺すなど)のことを指していると考えた場合ですが、「「『人間』は社会的動物」(アリストテレス)です。社会性、つまり法律はもちろんモラルなどのルールを無視するものは社会から排除されます。つまり「人間」としては失格ということでしょう。
私の答えは「ヒト」ではあるが「人間」ではない、です。
生物学上としてのヒト、というのもよくわからなくなってきました。。
人間は社会的動物であるのだから社会的活動を営まない・営めない動物は人間ではない、という論理でしょうか。
社会性、モラルを決めたのはヒトであるのでしょうか。とは思いましたがこれは例えば、神、が決めたとしても問題はありませんね。それでも神の存在を決めたのは人なのでしょうけど。
神については以下禁止します。宗教的な「人」をたずねているわけではありませんので。
http://d.hatena.ne.jp/bragelone/20050411
2005-04-11 - caguirofie
意思疎通・コミュニケーション・要するに問いかけと答えとの話し合いが欠けている存在は 人として生まれて来た存在ですが 人であることを放棄している状態にあると思います。
簡略に言えば 人として重要なものが欠けている人は 人ではありません。
意思表示ができない人は 人間以前の状態にある人です。
岩井克人氏が《ある意味で人間以前の存在》という表現を用いて 上のような議論をしています。終りなき世界―90年代の論理(p.131)
URLが自分のもので申し訳ないです。
http://www.hatena.ne.jp/1127752799人:detail]
人ではないと思います。
ひどいことばかりする人を「人でなし」というように、
重要なものが欠けている場合
遺伝子的・生活環境・教育の面・・・などなにかの面で習得できなかった場合が考えられます。
何らかの面で人として重要なものを習得できなかった人は、酷い事ばかりする人でなしである、という論理なのでしょうか。申し訳ありませんが後半部分の論理がよくわかりません。
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%B7%E7%A4%B1%A4%EB&...
国語辞典 英和辞典 和英辞典 - goo 辞書
欠けているということは、それ以外は人としての要素を満たしている
とも考えられますので、欠けていても(不完全でも)人は人だと思います。
人としての要素を一つでも満たしていれば人である、ということでしょうか。
とするとその人としての要素、を持っていない人は人ではありませんね。
本題に入る前に、まず、「人として重要なものは何か?」ということを考える必要があるでしょう。
最初に人は生まれたとき、一体の生物として生まれてきます。この通称赤ん坊と呼ばれる「人」は、人としての能力をほとんど持っていないに等しい。けれども、赤ん坊は、「ヒト」から「人」になる条件すなわち、精神的に、肉体的に、感情的に。人として成長できる可能性をすべて備えています。そういった意味では、一番、人らしい人と呼べるかも知れません。
さて、その条件のことです。まず本題の対象を「大人の人」と仮定するならば、赤ん坊から成長した人がその過程でどんな能力を身につけることができ、その可能性として何を失ったかということに議論を持って行く必要があるでしょう。当たり前のことですが、人は、成長する過程で、「肉体的」「精神的」「感情的」の三面に対して成長していきます。また、事故や病気でそのいずれかを失うこともあります。
前置きが長くなりましたが、この3つの中で、どれが重要なものかは絶対的なものを定義することは、きわめて難しいこととだ思います。sれは、「評価する人」によって変動する相対的価値だからです。僕が重要なものと定義しても、あなたは重要なものと考えないかも知れません。また、統計的な数値も当てには出来ないと思います。抽象論になってしまいますが、その「重要なもの」が一体何か、分からないままだと、拙速に択一の結論は出せないのだと考えるのです。
ただ、個人的には、人間が成長の過程で身につけるのは、「表現すること」「理解すること」の2つが重要な要素だと考えます。この2つが欠けても、「ヒト」という生物として生きるのは可能です。しかし、「人らしく」生きることは不可能です。その「人らしく」生きることに対する不可能さの割合が増す毎に、誰しも持っている「人の力を借りなくてはならない人」としての度合いが増すのだと思うのです。従って、私個人的には、「重要なものが欠けても、人は人」というのを結論としたいと思います。
「先天的に成長できる可能性がない赤ん坊以外の赤ん坊が人である」という主張はわかりました。
その重要なものは人によって違うので人間は自分の考える「人として重要なもの」を考えるしか術がありませんよね。ですのであなたの考える重要なものを欠いた人のことを考えていただければ結構なのだと思います。当たり前なのはあくまでもあなたの中だけです。
「人らしい○○」も、「人の力を借りなくてはいけない○○」も、○○であるということですね。
「人らしい」「人として」というのは「人というイデア」なのかなと思いました。
『人として重要なもの』って言うのが何を示すか判りません。ただ、精神的、肉体的な一部の欠損で人でないと言い切ることは生命というモノへの冒涜かと思います。
生命は神聖なもの、という考えを前提とした論理ですね。ただ、残念なのは質問の回答になっていません。人である・人でないと言い切るのが冒涜であるか否かは尋ねていません。
社会的にはどうでしょうか。社会的地位の欠落で人でないと言い切ること(えた・ひにん...)は「生命」に対しての冒涜なのでしょうか。
URLはダミーです。
質問の主題に掲げられている「人」の定義が回答者毎に異なっているので、回答がなかなか集束しませんね。
観念的な回答は水掛け論になると思うので私は控えます。
他の方の回答に「生物学的には」とありましたが、
同様に、全ての人に基本的人権が認められていることから「法律上は」全ての人が人のようです。
日本の憲法ではそうなっているようですね。義務を果たさないでも権利が発生していると考えてもよろしいのでしょうか。
また、基本的人権の尊重という憲法・法律を欠いた社会ではどうでしょうか。またその概念を欠いた社会ではどうでしょうか。食人文化では食べられる人の自由権は保障されていますか。
まず、「人として重要なもの」とは何かを明確にする必要があるでしょう。
「人として重要なもの」については万人が「こうだ」と言える定義はないでしょう。
よって、あまり意味のない質問ではないかと思います。
質問の答えになっていないのでポイントは不要です。
「こうだ」といえる定義がないと言い切りながら、それが何かを明確にする必要があるという論理がわかりません。何故明確にする必要があるのですか。
この回答に意味はありますか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%88
ヒト - Wikipedia
人として重要なものが欠けている人は、人ですか?
ア・プリオリな人間、形而上学的人間、人間としてのイデア、あなたの文章でいうところのおそらく最初と最後の【人】を“ヒト”と表現しますね。ややこしいので。
まずは論理の問題として。
「ヒトとしてエッセンシャルなものが欠けている人」はヒトではないです。
でも、「ヒトとして重要なもの」だけが欠けているなら、まだそれはヒトでしょう。
何をもってヒトとするのか、ヒトとしての必要条件は何なのか、は時代、場所によって変わります。もっと言えば、属する共同体によって、その定義は異なります。
多くの前近代的な共同体にとって、子供はヒトではありません。共同体の通過儀礼を経て、共同体の一員として認められて初めてヒトになるのであり、それまではヒト以前のものか、逆に紙のような存在となります。
また、子供以外にも旅人、異邦人なども同様でしょう。共同体、たとえばムラにとってヒトとは、その構成員のみを指し、外部の者はヒトではありません。ヒトになるためには、例えば結婚、たとえば富をもたらすなどして、共同体の一員にならなければ、ヒトとは認められません。
現代に翻って、様々な点で、未だ日本人にとって外国人は人であってもヒトではないと感じます。疎外されているものは、その共同体にとってヒトではありません。
ヒトというものを初めて人が意識したのは近代になってからでしょう。「人間(ヒト)はみな平等」。近代的人間の一つのあり方です。しかし、聞こえのいいこの言葉の裏には「ヒトでないものはヒトと同等ではない」という意味を内包しています。
人はひとりではヒトたりえないと思います。他者を意識し、それと同等であるかどうか、それを見極めようとする過程で初めてヒトになるのではないかと思うのです。
換言すれば、逆説的になりますが、ヒトとしてもっともエッセンシャルなものは、ヒトでないものの存在、ということになると考えています。
つまり、ヒトとして重要なものが欠けている人の存在こそが、人(他者)をヒトたらしめる、ということです。
ただ、これは2者間においては、互いをヒトたらしめますが、構成員が3人以上になり、共同体が複雑化すると、多数決力学が働き、ヒトでないものをはじき出すようになります。
ひとり社会では、何者もヒトたりえない。
ふたり社会では、互いにヒトたりえる。
三人以上の社会では、共同体の中でヒトでないものが生まれる。
ということになるのではないでしょうか。ただ、これは社会的なヒトであって、生物学的なヒトとはまた違います。
染色体の本数が46本というのも一つの定義ですが、性染色体が1本欠けている人はけっこういます。見た目は普通の人と区別が付きません。腕のない人、足のない人、あるいは逆に多い人、これらはイレギュラーではありますが、生物学的には人です。ただ、残念ながら前述のヒトとしては、受け入れられない場合が多いです。よきにつけ、悪きにつけ、です。
結局は、個人によって異なるのでしょう。ヒトとして認めればヒトになるのでしょうし、そうでなければヒトではない。でも別の人から見ればヒトである場合もある。社会、価値観が複雑化した現代では、これしか結論が出せないのかもしれませんね。
「ヒトとしてエッセンシャルなものが欠けている人はヒトでない」
「ヒトとしてもっともエッセンシャルなものは、ヒトでないものの存在」
なるほど。その考えに基づけば確かに「ひとり社会では、何者もヒトたりえない」ですね。
ただ最初の命題は言葉の論理に過ぎず、私は本当にヒトとしてエッセンシャルなものを欠いた人がヒトなのか、が気になる。それがessentialであるかimportantであるかはessentialでない。もっといえば「人でない人は人ですか?」という質問でも大差ないのでしょう。
無人島に行き自給自足で暮らしている期間は私は人ではなくなれますね。
ただそれが人として重要なものを欠いた人かどうかは難しい所ですね。
特に前半部分、好感が持てる回答でした。ありがとうございます。
【インフォシーク】Infoseek : 楽天が運営するポータルサイト
どういう形でその人に関わるかによって認識は変わってくると思います。
例えば、その人に子供を殺された親であれば
「人でない」と思うでしょう。
逆に、その人を溺愛するその人の親であれば、
「人でないわけがない。」と思うでしょう。
また、重要なものが何を指すかによっても変わってきますよね。
例えば、私が貴方のことを人として、重要なものがかけてるな。
と思ったとしても、全ての人がそう思うとは思えない。
つまり、「人として重要なものがかけている人は人でない。」
という考え方は一般化できない。
というのが、私の答えです。
「例えば」の段落ですが、これはある共通の水準(この場合は感情でしょうが)を前提としたあなたの意見ですよね。前提とされる共有できるはずの水準を欠いた人は人なのでしょうか。
全ての人がそう思うとは思えないのは幸せなことですが、それは
-何故人を殺してはいけないのか
--悲しむ人がいるからだ
-悲しむ人がいなければ殺しても良いのか
-そんな人などいない
という希望的推測ですよね。
一般化はできない、という回答には興味がもてました。「人として重要なものが欠けている人は人である」と言う考え方も一般化できませんか。
URLはダミーです。
この問いに対する論理的な正解を導き出すことは不可能です。
理由は境界条件が曖昧だから。
”人として重要なもの”が、
人が人であるための必要条件に抵触するものか否かによってこの問いの正解は変わってきます。
必要条件に抵触するのであれば、それが欠けているので当然「人ではない」し、
必要条件に抵触しないのであれば、何が欠けていようと「人」です。
人の定義が生物学的なものであれ、社会的なものであれ、
重要なものが必要条件に関わるか否かをはっきりさせなければ問いの意味はありません。
上記を踏まえると問いは人として認められうるための必要条件とは何か?という問いに発展すると思われます。
ここでその問いに対する私の回答を、生物学的な側面と社会的側面との2点から示します。
生物学的には人類ヒト科として既に誰の目から見ても明らかな個体とDNA配列パタン一致率がある一定の値(チンパンジーが95%以上ヒトと一致することを考えると、おそらく98%以上くらい?)を超えることだと考えます。
ある一定の値の具体的数字を決めるのには非常に慎重な研究と議論が必要です。
社会的には他の人から人であると認識されていることです。
社会とはそもそも2つ以上の存在がないと成立しないので、社会的側面から述べるのであれば、
このような単体では人か否かを判別することが不可能な条件定義でも許容されると思います。
”人として重要なもの”が、
人が人であるための必要条件に抵触するものとあなたが判断するのであれば、それは人ではないし、
必要条件に抵触しないものとあなたが判断するのであれば、それは人である、ということですね。
DNAの件はすこし残念でした。誰の目からみて明らかに人なんですか。それがわかっていればこのような質問はしません。また、その明らかな人に近いから人、そしてそれが98%くらい?とあなたは言うわけです。仮に非常に慎重な研究と議論によって98.0%としましょう。(ここまで違えばまず確実に人の外見ではありませんが、数字はどうだって良い)DNA塩基配列が97.9%違う人と98.0%違う人はどのように違うのでしょうか。その組成の「差」はむしろ100%の人との差(2.1%の違い)よりは近いですよね。そこに決定的な遺伝子を含んでいるかどうかで決まるだけだと思いますが。99.9999999%同じでも「人として重要なこと」だけが違う、そんな人はひとでしょうか。
社会的に単体の人でも「自分は人である」と思うことは出来るし、例えばただ一人無人島で生活(人が生活した瞬間に無人島ではありませんが)している人がいます。という文章にしても社会的に通用しますよね。
http://www.hatena.ne.jp/1127752799#
人力検索はてな - 人として重要なものが欠けている人は、人ですか?
「人を人として認める他人は人でしょうか。」
とありましたので、お答えします。われわれは、原始人の時代から、食べ物をめぐって、時に争い(人殺しも含めて)、時に妥協してきました。しかし、根本的に、二人しかいない時、片方が片方を殺したら、もう人間が繁殖する可能性は、その場所ではゼロになります。つまり、他人がいる事によって、妥協を迫られる、それが「人間社会」です。それでなければ、動物同士の争いです。人を人として認める他人、これも、相手が動物ではなく、妥協が可能だと考えているから、人として認める事が出来るのです。もしかしたら、高度な人格、について、「欠けている」、「欠けていない」という事をおっしゃるのでしたら、それは、自然や地球に対する、人間の不遜だと思います。宗教や哲学に頼るより、「生きるか死ぬか」で考えると、わりとあっさりと答えが出てくると思いませんか?
二人しかいない時に一方を殺したら繁殖する可能性はゼロですが、そのようなときに人が人を殺さなかった証拠はありません。妥協を迫られたあなたの希望的推測に過ぎません。
申し訳ありませんが、他人がいなければ妥協が出来ない、ことも理解できませんでした。
また、「高度な人格を欠く・欠かないことを考えることが自然・地球に対する人間の不遜である」という宗教には私は頼っていません。
生きるか死ぬかで考えると答えが出てくるという論理が残念ながらわかりません。
定義が曖昧なので何とも言えないかと
1.人とはなにか
2.人として重要なものとは何か
この2点の定義によって人であると言えるし、人ではないと言えます。
この定義の組み合わせは無数にあり
生物学上遺伝子がホモサピエンスであれば
何が欠損していようとそれはホモサピエンスだと言えるでしょう。
倫理観や人道的な精神論からすれば
それこそ無数に答えは出てくるはずです。
何において人を人と定義するのか
何において人として重要なものと判断するのか
それは個々人によって判断の分かれる所であり
正解はない種類のものでしょう。
今まででも生物学上のヒトについてありましたが、生物学の知識がないのに生物学上のヒトを定義することはもうやめにしましょう。「遺伝子がホモサピエンスである」って何を言っているのか分かっているのですか。
倫理観や人道的な精神論からしてあなたはどう考えてるのかが全く伝わりませんでした。申し訳ありません。
人として重要なものとは、何でしょうか。
絶対的な定義があるんでしょうか。
水には酸素と水素が必須ですが。
「人として重要(であると思われる)なもの」
ですよね?
ワタシは人として重要なものを満たしている。とは言い切れませんよ。
言い切れる人はそれはそれで素晴らしいと思いますが。
また、人でなかったら、何なんだろうかと思います。
Mementomori さんは、人ですか?
むしろ僕がそれを尋ねているのですが。
観測者の主観によると思います。
例を挙げるとリンゴがさまざまな属性(赤い、甘酸っぱい、丸い、木になる、手のひら大の大きさ・・・)を持っているとしてどれが欠けたらそれはリンゴではないかを考えてみるとどうでしょうか。
青いリンゴはリンゴですか?
四角いリンゴはリンゴですか?
柿の味のするリンゴはリンゴですか?
芋のように土に埋まっているリンゴはリンゴですか?
赤くてリンゴの形をしていればリンゴと認識する人もいれば、味がリンゴならリンゴと認識する人もいるでしょう。
人の認識も同じことで、死んでいても人の形をしていれば人と認識する人もいれば、ミンチになっていてもDNAが人のものならば人と認識する人もいて、アンドロイドでも見た目で違いがわからなければ人と認識するひともいるでしょう。
ちなみに私の主観では最低限人の形をしている(人の頭と胴がある)、コミュニケーションが取れる(ある程度複雑なもの)、ユニークな存在である(同一存在が同時に存在しない)を満たしていれば人だと認識します。
リンゴスターはリンゴではないと思います。
死んでいても人の形をしていれば人。。12時間程前は死ぬまで人は人、説で持ちきりでしたが死んでも人である場合がある。見る人によって。見る人は死んでいる人でもでしょうか。死んだら見れない??
ということは人として重要なことは「人の形をしていて」「コミュニケーションが取れて」「ユニークである」ことですね。それらが欠けていれば人ではない、ということでしょうか。
人として重要なものとはなんでしょう?
例えばこのURLの彼女は染色体異常の病気らしいですが、これは身体的なものです。
僕は、『重要なもの』がおそらく精神的なもの、内面的なものであると考えて答えさせていただきます。
世の中には信じられないような凶悪なこと、残酷なことをする人がいます。
しかし、育った環境などが違えば、誰にでもその人と同じ事をする可能性はあると思います。
よく性善説・性悪説で論議されていますが、僕は性悪説派ですね。
どんな風に育てても必ず何かしらの欠点のある人になるでしょう。むしろ、完璧な人は人ではないと思います。
人として重要なものは「環境」であり、それを欠いた人は人では…人なのですか?どっちでしょうか。
何かしらの欠点があっても良いのですが、人として重要な部分が欠けている人についてのことを聞きたかったです。
完璧な人は人ではないと思うのは何故ですか。人として重要なものを全て備えた人間(質問に対しての回答なのでこれを完璧な人と解釈させて頂いています)をなぜ人でないと思うのか、聞きたかったです。
29.の回答をしたものです。
回答に対する質問(あるいは反駁)があったようなので、追加で。
まず、誰の目から見ても明らかに人、というのはちょっと語弊がありました。
正確には観測者にとって明らかに人であると認められる人間、重要なものが欠けていない人間です。
天才的知能を持ったカエルがいたとして、そのカエルが観測者であるならば、
そのカエルにとって明らかに人であれば、他の存在から見て人でなくてもかまいません。
なぜなら、そのカエルの中の”人”の定義に即応するものこそが、そのカエルにとっての”人”だからです。
(上で出ていた一般化できないという回答にも通じます)
このような”人の明確な定義”をなくしては人か人であるかの判別はできません。
さて、遺伝子の話は観測者が私の場合、生物学的にヒトであるという定義を特定の遺伝子パタンとの一致率が閾値以上である遺伝子を有する生命体と定義するだろうということです。
この場合、仮に観測者が私のみであれば、
特定の遺伝子パタンのサンプルには私が問題なくヒトであるという個体の遺伝子を用いることができます。
この行為は換言すれば、観測者(私)においてヒトの定義の基準をその個体に設定するということになります。
もちろん、
観測者が前述のカエルであればカエルが適当だと判断できる定義を用いなければなりませんし、
人類全体が観測者となりうる場合は、人類全体が妥当であると合意できる定義を用いなければなりません。
繰り返しになりますが、遺伝子は私が観測者の場合なら、という仮定のみの話です。
次に、いったん定義が定まったら(仮に遺伝子の一致率が98%以上であるとしたら)、
98.0%でも100.0%でもヒトですし、97.999999999%は絶対にヒトではありません。厳密な定義とはそうあるべきものですから。
社会的な話にしても、観測者が(この場合、観測対象の社会から隔絶されたという実現不可能な付加条件が必要ですが)私の場合、という話です。
また、”他の人”というよりは”他の観測者”、の方が適切ですね。
その上で、おっしゃることには少し論理的に弱い部分があるのではないかと思われます。
真に単独な存在が自分は人であると思ったのなら、自己以外に観測者はありえないので、思った瞬間にその存在は人たりえます。
しかし、社会というのが2つ以上の存在によってでしか成り立ちえないものである以上、それは社会的な意味での人ではありえません。
同様の理由で、無人島に住んでいる人も、住んでいない人、
あるいはその無人島に住んでいる別の観測者(たとえばサルとか)から人(サルの場合はどのような言葉が割り当てられるか不明ですが)であると認識される必要があります。
まず、遺伝子98%とDNA組成の98%の違いを認識してますか?まぁいいでしょう。遺伝子の一致が2%以内なら人、とすればいいというのはやはり強引であると思います。
遺伝子で人とそれ以外を分けるのであればその違う遺伝子が何であるのかが重要ではないでしょうか。
先も書きましたが生物学上の知識がないのに生物学上の人を定義するのはやめましょう。
さて最後の段落は申し訳ありませんが主旨が理解できません。自己を観測者として自分が人であると観察する人は、それと断続したこの社会で人として社会的に認められますね。
サルが認めれば社会的に人なのですか。
良心がなかったら人ではないです。
人として、人ではないですから。
人が作った文明は、人に合わされて作っています。
何か1つでもかけていたら成り立ちません。
また。適応も出来ないです。
だから人ではないでしょう。
3行目以降は理解できませんでした。申し訳ありません。
良心がないなら人でない、と言い切る当たりが気持ちよかったです。根拠がわからないですが、まぁみなさんの意見聞いてると根拠なんてないんですかね。
http://www.hatena.ne.jp/1127752799##
人力検索はてな - 人として重要なものが欠けている人は、人ですか?
人として重要なものが欠けていても、科学的には人は人です。しかし、周りの人は人として認めないかもしれません。でも、あくまで人は人です。
回答者の質が下がったのでこれで終了させていただきます。
ありがとうございました。
非常に申し訳ありませんが、まとめてコメントさせていただきます。
>ttzさん
質問に対しての回答になっていません。「人として重要なものが欠けている人は、人でなしであり、存在すべきでない」と解釈してよろしいのでしょうか。
>nitscapeさん
申し訳ありません。「しかしそれでも」の論理がが私には理解できません。
>bookstoreさん
申し訳ありません。「その人を必要としてくれる人がいる以上,人」という論理が私には理解できません。
>TomCatさん
生物学的に人であることは分かりました。しかしなぜあなたが「人から生まれた子が社会的に人である」としているのかが私には理解できません。
>yuki333zityoさん
申し訳ありません。「とにかく」の前後のつながりが私には理解できません。