そこに属している男性たちはどのような性的志向を持ち、どのような性生活を送っているのでしょうか?
例えば、彼らは女性の胸などに対して性的に興奮したりするのでしょうか?また、いわゆる「愛撫」をきちんと(?)行ったりするのでしょうか?
アフリカなどでは女性の割礼も行われていたりしますが、そういったことに起因すること等を含めて、どのような性生活が営まれているか教えてください。
http://w2222.nsk.ne.jp/~yumiko/profile/uranaiyomoyama.htm#服を着て高まる性的魅力:detail]
西アフリカのボンゴ族の男たちは裸の女性には興味をもちません。
彼らは、服を着た女性の姿に性的刺激を受けるのです。だからボンゴ族の女性は
男性を刺激しないように普段は裸で生活。彼女達は性的な儀式や踊りのような
特別の場合だけ、男性を性的に興奮させるため、服を着ます。
http://www.gaga.ne.jp/hadashi/
裸足の1500マイル
URLはダミーです。
大学でアボリジニ学の講義を取っていたので知っている範囲で回答させていただきます。
アボリジニに限っていえば、アボリジニの男性は女性の「におい(香り)」に魅了されるそうです。
やはり、裸体を普段から見ているとそれが普通なのですね。
アボリジニの世界では私たちの生活と比べると興味深い儀式があります。
儀式の時に、自分の奥さんの母親と交わるのです。
男性は本能的に年上の女性に惹かれるらしく、世の中で一番魅力的な母親は、自分が愛した妻の母親なのだそうです。
普段はその妻の母親のいる方向を見ることすら禁じられておりますが
その儀式の時だけ、その妻の母親と交わることにより欲求不満を解消するそうです。
もしその母親と接すること自体を禁じてしまうと
欲求が爆発し争いなどが起こってしまう可能性があるので
敢えて儀式でその欲求を開放させるそうです。
そして、かつてイギリスから今のオーストラリアへ渡った人々は裸体に見慣れておらず
興奮し、アボリジニの女性を求めていたそうです。
当然アボリジニ男性は女性を守ろうとしますから、イギリス人にとっては
アボリジニ男性の存在が厄介で、そこから殺し合いなどが激化したとも言われております。
…質問の主旨と外れてアボリジニ論になってしまいましたかね…ごめんなさい。
行為中の愛撫などは存じ上げませんが、アボリジニ男性に関しては
女性の「におい」に興奮するそうです。
有難うございます。
大変興味深いお話です。
妻の母親との交わりには、単に欲求を満たすためだけではなく
何か「機能的」な側面があるのでしょうか。
においがセックスアピールとなるのは普遍的なものとも
考えますが、アボリジニの女性の場合、その性的な魅力を
高めるために何か工夫をするものなのでしょうか。
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Amazon.co.jp: 人類学のコモンセンス―文化人類学入門: 本: 浜本 満,浜本 まり子,太田 好信
大学の授業でこちらの本を使いましたが、3章「性差」、4章「血縁」にそのあたりのことが書かれていますので一部要約して紹介します。
アフリカやニューギニアなどの一部の社会においては、女性的なものはケガレたものとされています。男児が真の男性に成長するためには、女性的なケガレから隔離される必要があるというのが共通した概念です。
例えばザンビア族などニューギニアの多くの社会においては、子どもは女たちの手で育てられます。男児は成長するにあたって女性のケガレを取り除く必要があり、そこで儀式がなされます。男性性のエッセンスである精液を年長の者から授けられなければならないのです。何故かと言うと、精液は少年が自ら生産できるものではないと考えられていて、年長者から精液を与えられて蓄えるとされているからです。
年長者から十分に与えられて真の男性になったら、今度は自分たちが少年に与える役割を担います。儀式的な同性愛は結婚した後も続きますが、第一子が誕生したら終了です。
そして、真の男性は女性のケガレに触れてはいけません。女性のケガレに触れると、衰弱すると考えられています。生理中の女性や出産後の女性がとりわけケガレているとされ、その女性に触れることはもちろん、その女性が作る料理を食べることや産小屋に近づくことは禁じられています。
当然、性行為における愛撫も避けられます。女性の性器に直接触れるなんてことは考えられないことのようです。
また、アフリカ・マリ共和国のドゴン族では少女がもつクリトリスは男の魂(象徴的なペニス)が宿るとされていて、少女は女でありながらも男性的なものをもつ不安定な存在とみなされています。したがって、真の女性となるためにはクリトリスを切除しなければならないのです。少女は初潮を迎える前に割礼を受け、割礼を受けて真の女性になったら性交を結ぶことができ、初めての性交は初潮を迎える前に行われるとのことです。
また、スーダンのある部族では、少女は割礼を受けたあとに大陰唇の大半を縫い合わされます。その部族では、真の女性性を実現するために割礼と共に陰部閉鎖が重要な意味を持つのです。陰部閉鎖は象徴的な処女の花嫁ということです。しかしそれは性交や出産の度に大変な苦痛をもたらし、産婆を呼んで切開することもあるそうです。
蛇足ですが、メラネシアのトロブリアント社会などは生みの親子関係は重視されません。日本のように「実の親」「育ての親」という概念がないそうです。
すみませんが性的嗜好については分かりません。この回答が参考になれば幸いです。
有難うございます。
紹介していただいた文献をぜひ当たってみたいと思います。
「女性のケガレ」ですか、、
彼らは性行為自体についてはどのような概念をもっているのでしょう?我が身を削り子孫を残す、といったような思いで行為を成しているのでしょうか。このザンビア族のような社会では強姦といった性犯罪は起こり得るものなのでしょうか。
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Amazon.co.jp: 性・暴力・ネーション―フェミニズムの主張〈4〉: 本: 江原 由美子
まずは、crisis-christさんのコメントより、
>このザンビア族のような社会では強姦といった性犯罪は起こり得るものなのでしょうか。
これについてなんですが、上記URLの本の中で、次のような伝聞が紹介されています。
おそらくいわゆる裸族の話ではないだろうと思うのですが、興味深いので。
-----<書籍から引用>-------------------------------
(p171. 高島智世 『第6章 国家による性規制の論理と性的自己決定権』より)
ケニア・トルカナ地方の人々の「レイプ」への反応に関する興味深い記録がある。
村瀬ひろみがフィールドワークの中で体験した出来事を当時の自らの戸惑いも含めて率直に報告したものである。(中略:被害者少女の女友達の恋人等男2人によるものだった)
村瀬は、「事件」当事者や周りの人々に話を聞くが、(共犯者や被害者でさえも)「レイプ」は悪いことであるとは言うものの、重大なこととして受けとめているようには思えず、要領を得ない。(中略:ケニアではレイプは殺人罪の次に重い罪であること、英語教育のある人は「魂の殺人」とまで学校で教えられていること) けれども、そうした「ケニア政府の見解」はまったくと言って良いほど他の人々には浸透してないのである。初めは「事件」の周囲の態度に憤慨し怒りをあらわにしていた村瀬も、次第に「レイプ」観の違いとして受け止めるようになる。
-------------------------------------------------
これだけで、わたし自身もはっきりと輪郭掴んだつもりではないのですが、
「近代化されていない社会」と近代社会とで例えばレイプ観は違う、あるいは「性犯罪」視する境界線が違うのではないか、と先ずは考えています。
上を読んで、以前聞いた日本の夜這いの風習の話と似た話だなと思いました。
未だ雑な捉え方でしかないですが、「近代以前の社会」においては(と一括りにするのもアレですが)、
男女とも例えばセックスすることに対する「敷き居」が、近代社会の我々の感覚よりも低かったものなのではないでしょうか。
だからと言ってやみくもな相対化を主張するつもりもないのですけどね。
ちなみに上の本で女子割礼についての論は、第7章の岡真里よりも第8章の大森和夫の文の方が良かった、かな。
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Amazon.co.jp: 遊女と天皇: 本: 大和 岩雄
これは日本の各地の村の性風習を収集した民俗学の本なんですが、興味深い話いっぱいでお薦めです。
日本でも、湿度の高い夏になりますと、かつては裸族の生活をしていたのではないでしょうか。昔は一人が持てる衣類の種類・数もかぎられているわけで。
例えば写真家・木村伊兵衛が20年代の農村を撮った写真を見ますと、当時の女性たちがお腰一枚で農作業していて、カメラを向けられていても屈託無さそうに写されていたりします。
「遊女と天皇」については図書館で借りて読んだので今は記憶だけで、正確な記述は出来ないのですが、
一つに、先に書いたような、かつての村社会では「セックスすること」への敷き居感覚がまるで違うのだと知ることになります。(もう一つ大事な点が、到底「日本文化」と一括り出来ないような、地域の多様性に富んでいたこと)
例えば、これは本州に広く点在してたと記憶しているのですが、
名主や庄屋であっても、娘を数年間遊廓に奉公に出す風習がかつてはあったらしい。遊廓では各地の旅人と接するので、世間知を積ませるのにうってつけだからです。
あと、「神事」としてのセックス、という風習。
例えば、祭りの夜に村全体で、暗闇の中で「誰でもいいから」とにかく一晩に3人と交わらなくてはならない、などとという神事があった話とか。だから子どもは「村全体の子ども」となるわけです。
あと、童貞・処女の最初のセックスは「穢れ」が発生すると考えられ、そこで神事として筆おろしはする、と。なので巫女や神主が相手を務めるという地方が数多くありました。
ここでいう「穢れ」とは、人類学で広く「境界をまたぐ」ことそのものに人間は「畏怖」の観念をなぜか抱く、として説明されるところの、
「穢れ」です。
ちなみにこの「境界」と「穢れ」の関係の説明で分りやすくて面白かった本が、こちらです。
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Amazon.co.jp: タブーの謎を解く―食と性の文化学: 本: 山内 昶
あと、もう一点。
女性が「胸の露出が恥ずかしいこと」だった時代はヨーロッパであっても、常ではなかった、という事実があります。
これは、17世、8紀の衣服を実際に見てもすぐ分ることですが、胸をコルセットで高くしてますから、乳首なんてすぐ服からはみだすわけです。また、夏に着る薄手のものですと透けて見えてたでしょう。
オーストリア女帝のマリア・テレジアのセミヌードの肖像画も「普通に」あったりしますから。
いずれも年中裸で通す文化の話になりませんでしたが、ご参考までに。
有り難うございます。
レイプに対する敷居値が時代や社会の違いで異なるというのは、おっしゃる通りだと思います。
儒教的な縛りのなかった当時の日本社会と、春画、浮世絵を隠し観て楽しみとしていたような時代の日本
とでは性への志向やその敷き居が異なるのは当然と思えますし、
ヨーロッパにおけるルネサンス一つとってみても、その前後で性に対する意識はかなり異なったものであったと考えられます。
ただ、わたしがザンビア族におけるレイプの有無について考えた場合、
女性との接触自体をケガレたものであるとするような文化を有する彼らにとって、
本能的(動物的)な衝動にかられて女性を犯すというような事が起こりうるのか、
性衝動が文化的な束縛を凌駕してしまって事に到るようなことがあるのか、
といった点を疑問に思います。言い換えると、
「性行為自体をタブー視するという彼らにも女性と交わりたいという欲望が
実際は存在しているが、それが文化・教育によって抑圧されている」のか、
あるいは「そもそも抑圧されているというような感覚を持ち得ないほど自然に
性行為をタブーとしているため、女性と交わりたいという願望自体がほとんど存在しない」
のか、ということです。
このことはまた、人間の性行動に対する本能がどれほど強いのか、という疑問ともいえます。
アフリカの裸族の中に、女性は腰に一本の紐だけを着用する文化のある民族があります。
その女性達は、普段の生活の中で自分の体を見られることに恥じらいは抱いていませんが、初夜にその紐を外されることを非常に恥じらうと聞いたことがあります。
中国の文化であった纏足では、幼いときからきつく巻き付けられてきた足の布を、結婚して初めて何日もかけて少しずつほどいていくそうですが、その場合も同じように、非常に恥じらうそうです。
人間の場合、性的な感情は肉体的な物よりも、精神的な要素が多く含まれると思います。
有り難うございます。
一本のヒモ。。初夜に外すということですが、普段どのように身につけているのか興味深いです。性行為を成就させる上でヒモが物理的な障害となっているのか、はたまた、儀礼的な意味合いで外されるのか、、?
いずれにしても、ヒモを外すという行為が初夜のおつとめとイコールであることが羞恥心を生じさせるのでしょうね。
〓心理学ステーション〓7秒で相手の心を溶かす心理術〜セクシー心理学〜
セクシー心理学日記
ヌーディスト・リゾートに行った心理学者のリポートです。
裸で居ると、性衝動は抑え込まれてしまうそうです。
多分、動物と同じように、発情期みたいなものが
存在するようになってしまうのではないでしょうか?
有難うございます。
確かに通常秘められていた性差に対する性的な興奮、衝動は今までにいただいた回答からも抑制されることがわかります。
おっしゃるように発情期的なものが発生した場合において、
その際に成されるであろう性行為は、それもまたいわゆる動物的な体裁をもつような性行為なのでしょうか?
ABC.com
性行為自体をタブー視する民族など存在しうるのでしょうか?
僕は無いと思います。その民族は存続しえない。
どこかのおっさんが調べた結果を信じるのはやめましょう。その民族が聞いたら笑っちゃうと思います。
昔の日本が勘違いされていたように。
それと思うのが、普段から裸体だから性的刺激をうけないのでしょうか?僕は違うと思います。
僕も彼女らを見ても何も思いません。
性的刺激を与えないような体をしているから、服を着ていないのではないでしょうか?
僕はとてつもなくエロい日本の本を彼らに見せてその反応を見てみたいと思います。
有難うございます。
これはまた、違う側面からのご回答で、大変興味深く読ませていただきました。
しかしながら、この日本だけをとってみても、スカトロやらロリコンやら、性的志向はまさに千差万別、十人十色です。
ありとあらゆる、と形容できるほどのフェチも存在していますよね?
それはもともとの個人的資質によるものかもしれませんし、社会的、文化的な背景の違いに起因するものかもしれませんが、いずれにしても、所変われば人変わる。性についての常識、概念が多用であることは疑いないものだと思います。
性的虐待によるトラウマから
また、「性的刺激を与えないような体」をしているような民族が仮にいるとするならば、それこそ、その民族存続の危機が直ぐ訪れてしまうのではないでしょうか?
とてつもなくエロい本を見せる試験はぜひ結果が知りたいです。
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Amazon.co.jp: パンツをはいたサル―人間は、どういう生物か: 本: 栗本 慎一郎
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Amazon.co.jp: エロティシズム: 本: 澁澤 龍彦
答えは「バタイユや栗本、澁澤の本を読んでください」。その一言に尽きます。
ヒトは禁忌を犯し、過剰を蕩尽するとき、究極の陶酔を得る「悲しい動物」です。禁忌を犯す--つまり、日常と非日常の逆転が必要となるのです。だから、ヒトは町中で性行為を行ったりしないのです(普通は?!)
「1」さんが書かれているとおり、何がタブーを犯す状況かは、その共同体に依存します。
たぶんその服は、タブーを犯しうる服なのです---我々が言うところの裸体や一部の人々が興奮する制服のように...。
繰り返しになりますが、紹介した本を読んでみてください。あなたの人生変わります。
有難うございます。
やはり性的な魅力というものは、肉体的な性差のみならず
多分に文化的な裏付けによって生じるものなのですね。
非常に興味深く拝見させていただきました。
ボンゴ族の場合、いわゆる性交渉は着衣のままで行うことになるのでしょうが、実際にはどういった具合に進行するものなのでしょう?